明文化されていない暗黙の了解や
空気を読み取って動かねばならない

 その上で、明文化されていない暗黙の了解も複雑怪奇なまでに存在します。

 たとえば私は朝起きてゴミ出しする際に「燃えるゴミに入れていいものは何か」「資源ゴミとして出していいものは何だったか」という明文化された細かい決まりに加えて「朝何時からゴミ出ししていいのか」「ネットのかけ方はこれでよかったか」等々の暗黙の了解まで、ほぼ毎日ルールの存在を意識します。

 また、ゴミ出しの帰りには、拙宅の郵便ポストに届いた大量の書類を開封して「平素、云々」と時候の挨拶が書かれた文面を読み、「要点は何か?」を探らなくてはならず、いささかのストレスを感じます。日本人は何かと表現が婉曲で、メッセージを簡潔かつストレートに伝えることを避けますよね。ジョージアや北米では、公的な文書でも私的な通信文でも、そのような冗長さを感じることはあまりありませんでした。

 ゴミ出しを終え、朝食を済ませて仕事に出ますと、大使として日本の政治家や役所、企業の方々と日々接します。今度は日本人特有の集団内の序列意識に基づく適切な振る舞いに気を遣うことになります。議題になっている案件が双方にとって良いのか悪いのか、プロジェクトを進めていいのかダメなのか、明示的な了解や賛否がない状態で「空気を読んで行動する」ことを求められ、疲弊することもあります。寝ているときまで、緊張が抜けないときがあるほどです。

 もちろん、そういった日本人特有のマナーや暗黙のプロトコルを十分に理解していれば、その作法に沿って振る舞えばいいだけのことも多く、お作法を理解した集団の内側の人間として認めてもらえさえすれば苦労が少ないというメリットもあります。

 ただ、観光客であれば多少マナーやルールから逸脱しても白い目を向けられるだけで済みますが、日本に適応して暮らしていく必要がある身としては、規則の多さ、はっきりとした意思表示よりも「察する」ことを求める日本の慣習は、生きづらさにつながっていると感じる部分もないではないのです。

 日本の大都市は世界有数の規模、人口密度ですから、その中でたくさんの人がともに暮らすには細かなルールがあるからこそ成り立っているのだろうとも思います。日本の良さと息苦しさは、表裏一体なのでしょう。