「狂気」と呼ぶべき強烈な個性を放ち、今も多くの役者からリスペクトされる松田優作。彼は生前、奥多摩の温泉宿を好んで10回以上も訪れていたという。隠れ家風の静かな宿で、仕事と向き合い、愛する家族と過ごした寛ぎの時間とは。本稿は、山崎まゆみ『宿帳が語る昭和100年 温泉で素顔を見せたあの人』(潮出版社)の一部を抜粋・編集したものです。
「ブラック・レイン」の撮影前に最後の投宿
「狂気」の役者は「痛くて」とつぶやいた
日米合作映画「ブラック・レイン」(1989年)は松田優作の遺作として知られる。
末期の膀胱がんだった松田は、医師から「命か、映画か」と選択を迫られるほど深刻な症状だったが、命を削る覚悟を持って撮影に臨んだ。
「ブラック・レイン」は大阪の街を舞台に、アメリカ人の警官マイケル・ダグラス、アンディ・ガルシアと日本人警官の高倉健が、松田優作扮する日本のヤクザを追跡するアクション映画だ。
私は公開されてすぐに映画館に行ったが、改めていま観ると、青い目と金髪の派手な存在のマイケル・ダグラスに対して、短髪で黒い目をした高倉健のストイックな演技が際立っていた。
ただ最も目が離せなかったのは松田優作だった。
痩せ細り、こけた頬に眼光鋭い目だけをギョロリとさせる様は、姿を現すだけでその場の空気を凍らせた。松田は自身でも「狂気」という言葉をよく使うが、まさに鬼気迫り、背筋がぞっとした。
「ブラック・レイン」の撮影前に台本を持ち、松田優作がひとり訪れたのは東京都奥多摩に湧く松乃温泉「水香園」だった。
女将の中村恭子さんが当時を語る。
「いつもと様子が違ったんです。『河鹿』のお部屋から出てこないし、口数も少なく、すごく痩せたので、大きな役に取り組んでいるのかなと思いました。でも、何かおかしくて、『大丈夫ですか?』と尋ねましたら、『調子悪いんだよ。身体が痛くてさ』とおっしゃって、『痛くて』と繰り返し、何度も何度も温泉に入っていました」
これが、松田優作が「水香園」を訪れた最後になった。