画家の道を志した
父に反発したヒトラーは、小学校の頃こそ成績優秀だったが、実科中等学校に進学してからは、授業をさぼり、落ちこぼれになってしまう。
その背景には、父への反発があったという。ヒトラーは、ギムナジウム(大学予備課程)に進学したかったのに、父の反対で職業に直結するレアルシューレ(実科中等学校)に進路変更させられた……実際のことはわからないが、少なくともヒトラー自身はそう受け止めていたようだ。
「わが人生において、はじめて私は……反抗への衝動に駆られたのである。父親が、ひとたび決定した計画や目標をたとえどんなに強引に押し通すつもりであろうと、息子の方は、自分にまったく関心のない、もしくはあまり面白くない考えは、断乎としてかたくなに拒否したのである」
時には、父から殴られて意識を失ったこともあったが、父が肺出血で亡くなったことで、そのいさかいは終わる。父の死から2年後、ヒトラーは肺の病気を理由に、16歳で学校を中退。少年時代からの夢であった画家になるべく、芸術の街・ウィーンへと旅立った。
最愛の母の死と二度にわたる受験の失敗
しかし、ウィーンの地でヒトラーは、美術アカデミーの入試を受けるが、合格できなかった。
その数ヵ月後、乳がんを患っていた母が病死。医師から「これほど悲しみにおしつぶされた人間を見たことがない」と言われるほどの落胆ぶりだったという。
悲しみを振り払いながら、ヒトラーは翌年に再チャレンジするが、またもや思いは届かない。2回の受験はともに不合格に終わっている。
ヒトラーはウィーンに来てから、学生時代からの友人と共同生活を送っていた。しかし、二度目の受験に失敗すると、下宿先から蒸発。簡易宿泊所で生活を送るようになる。
絵ハガキを描いては売りさばいて、生活費を稼ぐ日々がよほどつらかったらしい。ヒトラーはウィーンでの5年間についてのちに「わが生涯の最も悲惨な年月」と振り返っている。