〈少くとも10歳までは、子供は、犬を調教するように時にははたき、人間としてのしつけを身につけさせなければならない。中学校から高等学校へ行くようになって非行化しても、それを改めさせることは容易ではない。幼犬の頃からしつけなければ良い成犬にならぬように、子供も幼い時からしつけなければ、一人前の大人にはならない。その時期をのがしてしまえば、犬は駄犬になり、子供も手に負えぬ人間となる。〉(『私の引出し』文藝春秋)

 吉村にとって、子供のしつけは犬と同列なのだ。

〈しつけをしないと、どんなにいい血でも駄犬になっちゃいます。〉(「総合教育技術」昭和47年9月号)

 とまで述べている。幼い司にはわからなかったかもしれないが、吉村が怒る理由はあった。

〈……夫は、嘘を言ったとき、約束を破ったとき、卑怯なことをしたときにはきつく叱る。特に男の子には厳しく、風呂場へ連れて行って頭から水をかけたこともあった。〉(「婦人公論」昭和46年5月号)

 吉村もそのことに触れている。

〈宿題をしなかった小学校3年生の息子に、私は、衣服を脱げと命じて頭から水をぶっかけた。社会のきびしい風波に堪えられる人間にしてやりたいからだ。〉(「週刊朝日」昭和43年8月9日号)