中年男性が若い女性に恋をすると、その結末は、ほぼ必ずと言っていいほど悲しいものになる。中には女性に送った恋文が、SNSに晒されてしまう男性もいる。当然だが、そういった歳の差恋愛は、SNSが普及するよりはるかに昔から存在し、恥ずべきこととされてきたのである。なぜ中年の恋は恥ずかしいのか、歴史を紐解きながら解説する。本稿はヨコタ村上孝之『道ならぬ恋の系譜学 近代作家の性愛とタブー』(平凡社)の一部を抜粋・編集したものです。
中年の恋とはそもそも
妻子ある男がするものだった
「中年の恋」が非難される最大の理由は、「中年男」が家庭を持っているはずだという前提があるから、つまりそれが浮気であり、家庭破壊の意味を持っていたからである。
田山花袋も書く通り、「昔の教育を受けた人は、多くは社会道徳中心である。こんなこと[中年の恋]は妻あり子ある身の考えるべきものでないと言つた風にして了う」(「『恋ざめ』序文」246頁)。
つまり、「問題としての中年の恋」を作り出したのは、近代的家族であり、そこに含意されていたところの、単婚的・一夫一妻的イデオロギーであり、それを支えた近代的恋愛観であったといえよう。
厨川白村(編集部注/英文学者・文芸評論家。『近代の恋愛観』がベストセラーになり恋愛論ブームを起こした。現在、中国語圏で著作が多く翻訳されている)に言わせれば、「恋愛至上の思想あつて、はじめて一夫一妻の制に、的確なる精神的道徳的合理的基礎を与ふることが出来るのだ」(『近代の恋愛観』195頁)。
「恋愛」はその観念の必然としてモノガミー(編集部注/一夫一妻制)を要請したのである。
こうした婚姻観においては芸者との恋、遊女との恋は想定されていない。自然主義文学者たちも、熟年世代の芸者遊びを「中年の恋」としては考えていないのである。