名車を生み出してきた日産はどこへ行った?

 かつて日産には、自動車ファンを魅了する人気モデルがあった。1957年に当時のプリンス自動車工業が発表した「スカイライン」は、モデルごとに“ハコスカ”、“ケンメリ”などと呼ばれ、多くの若者の支持を得た。セダンの「ブルーバード」も、スーパースポーツセダン(SSS)タイプを投入したことで人気が高まった。日産には、人々が欲しいと思うクルマを造る企業文化があった。

 しかし、今の日産には、需要者が本気で欲しいと思う車があまり見当たらないのだろう。背景には、そうした車を造るDNAが十分に発揮されていないか、そもそもそうしたDNAを失ってしまったか、いずれかが考えられる。

 問題の要因は、90年初頭のバブル崩壊までさかのぼる必要があるかもしれない。当時、わが国の経済は急速に減速し、株価や不動産などの資産価格は下落し、経済社会全体を過度なリスク回避のマインドが覆った。“あつものに懲りてなますを吹く” (一度の失敗に懲りて、必要以上の用心をすること)状況になった。

 それに伴い日産の業況は悪化し、研究開発を積み増すよりも過剰な生産能力のリストラなどの問題に対応せざるを得なくなった。しかし、終身雇用など日本型の雇用慣行なのでリストラは遅れた。

 そうした事態の打開を目指して、99年、仏ルノーから送り込まれたのがカルロス・ゴーンである。彼の指揮で、「日産リバイバルプラン」が始まった。ゴーンは、効率化を狙って村山工場など主力工場を閉鎖した。一方、ルノーとの経営統合を念頭に協業を促進した。

 当時の日産の主な戦略は、需要の増加が見込める中国など新興国向けに中価格帯の車種を積極的に投入することだった。他社に先駆けて電気自動車(EV)の「リーフ」も発表した(ただし、世界がEVシフトする起爆剤になるほどのヒットにはつながらなかった)。

 バブル崩壊後の日産は、国内の下請け、孫請けなど、サプライヤーとの協業を重ねてすり合わせ製造技術を磨き、コストを抑えて効率化を重視することに注力してきた。

 その結果、人々が欲しがる車を造ることの優先順位が下がったのかもしれない。それに追い打ちをかけるように、2018年11月19日、当時日産の会長だったゴーンが逮捕されると、日産の企業イメージは大きく棄損した。