親族の集まりでの疎外感と
親からの期待がキツすぎる

 ところが結果は不合格。父方の家系では祖母を除いて一族で唯一、公立の小学校に進むことになった明子さん。親族が集まる席で慶應にまつわる話が出ないときはなかった。

“私だけが幼稚舎出身ではない”。いつからか、疎外感のようなものを抱くようになったという。そして、その後も両親の「慶應に」という思いは続いていった。「慶應」という世界で育ち、その教育の素晴らしさを感じていたからだろうが、それが明子さんにしてみれば、重荷でしかなかったのだ。

「次は中学受験で入ればいい」

 という両親の考えで、再び通塾を始める。受験前に通っていたのは地元の子が多く通う塾だった。

「実は一度転塾をしました。塾については親から何か言われることはなかったんです。大手の塾に通っていたのですが、地元の塾のほうが学校の友達がたくさんいたので、私の希望で転塾しました。多分、慶應に入れるのならば親はどこの塾でもよかったんだと思います」

 集団指導とは別に個別指導も受けていたが、成績は伸び悩み、とうとう最後まで慶應を受けられるレベルには達しなかった。

「6年生の時点で偏差値的に10くらい開きがありましたから、どう考えても無理だろうと。でも、親は慶應しか頭になくて、兄が通っていたこともありますが、文化祭などの見学は慶應しか連れて行ってくれませんでした」

 受かるわけがない受験をなぜまたしなければならないのか、学校見学に連れて行かれても明子さんの心の中は複雑だった。自分の希望する学校がないままで迎えた出願校決定時期、明子さんは、

「慶應は受けない」

 と自分の意思を口にするようになっていた。

「母は取り合いませんでしたね。塾の先生にも私に慶應を受けるように勧めてくれと頼んでいたようでした」

「もう母につきあっていられない」
慶應中等部の試験をエスケープ

 偏差値も気持ちも乗らないまま中学受験は始まった。今回は滑り止めの学校も用意された。

「滑り止めの学校を決めたのもすべて母だったと記憶しています。塾が勧めてくれた学校の中から選んだのだと思いますが、見学に行ったのは1校だけだった気がします。おそらく、滑り止めも慶應大学に入学する人数が多い学校を選んだのだと思います」