夫はすぐにお湯を沸かす。紅茶を淹れて「フィッシュティー」のサパー(軽めの夕食)である。不味いだの不潔だの臭いだの、ブルーム家の子どもたちの前で言えますか?言えますまい。不味くも、不潔でも、臭くもないのだから。
冷蔵庫もなく氷すら貴重だった時代に生魚を扱うのだから、臭いがしたり蠅が飛んだりする店もあっただろう。それでもできるだけ清潔に、新鮮で、美味しく調理した店もあったはずだ。圧倒的に労働者階級の食べ物だったのだろう。
でも、王族だって貴族だって、公爵だって伯爵だって、絶対どこかでなにかの折に、たとえばお忍びでアヘンを吸いに行ったりした折に(!)、食べていたこともあったはずだ。
階級の分断を象徴する
フィッシュ&チップス
しかし、フィッシュ&チップスが「1つの国家に2つの国民がいる」と言われた19世紀のイギリスで、2つの階級を横断して愛されることはなかった。少なくともその料理のイメージや、小説、ドラマ、映画などでの描かれ方を見るかぎり、そういうことはなかったと言っていいだろう。
フィッシュ&チップスを嫌う人々があげつらう理由はもはやまったく真実ではないが、他方で料理の親しみやすさを売り物にするために、フィッシュ&チップスは労働者の料理だ!というイメージを労働者階級側が専有したがってきたという事情も、あながち無視できない。
コモナーズ・キッチン 著
ここがイギリス階級社会のややこしいところでもあり、魅力的なところでもあり、いくら素晴らしい料理でも人々の階級意識を越えたり、崩したり、そこに穴を開けたりするのがとても難しいということを痛感させられるところである。
フィッシュ&チップスを食べる存在が先か、それとも食べて美味しいとか不味いとか感じて表現しようとする意識が先なのか。意識が先ならば、労働者階級は美味いと感じて上流階級は不味いとか不潔とか言うんでしょ、だからそこに妥協できない線ができて階級の分断がまた維持されるんでしょ、という考え方が一方でありうる。
他方、存在が先だと考えた場合も、そういう存在として生きちゃっている以上、労働者階級ならばフィッシュ&チップスを食べる機会もたくさんあるけど、上流階級はまず食べようともしないんだから、そのよさがわかるはずもない、ということになり、また階級分断は維持される。
いずれにせよ、デッドロックなのだ。そしてこのデッドロックをまるで互いが楽しむように、「わたしたちとやつら」という互いに排除し合うような感情の溝を表現する料理として、フィッシュ&チップスは随分と都合よく使われて来たのだとも言える。