店の大小によって異なりますが、各遊女屋には遊女をのぞいても10名前後の従業員が勤めており、またその他の商人やその家族などを考え合せれば、吉原の総人口は遊女の総人数の倍近くになったのではないかともいわれています。

 このように住人でひしめいている場所へ、昼夜を問わずたくさんのお客が出入りしていました。

用事がないかぎりは
迷い込んだりはしない吉原

 吉原は、現在の住所としては台東区の千束にあたります。浅草にほど近く、浅草駅から歩けば20分もかからない程度でしょうか。

 とはいえ市街地からはずいぶんと離れていますし、現在もソープランドが看板を競っていますので、浅草に足を運んだからといって知らず知らずに迷い込むような場所ではありません。

 吉原がその営業をはじめた江戸時代においても、足を運びにくい場所、というのは同じだったようです。吉原の遊女屋が記した宝永~享保(1704~36)頃の史料「御町中御法度御穿鑿遊女諸事出入書留」(『未刊随筆百種 第八巻』所収)には、次のようなことが書かれています。

 吉原は遠方であるから、江戸御府内より「慰め」のために足を運ぶ者は、一、二日前より吉原に行くぞと心がけ、奉公人などは仕事を片付け、同僚にもよく頼んで二日をヒマにする。そんな様子だから、吉原に行くのはすぐ周りにわかってしまう。

 妻子などに遠慮して吉原へ忍んで行く町人もいるが、吉原では人に見付かると言い訳ができない。だから町中にある違法な遊女屋に行きがちだが、近いからと行って足繁く通い、横領する者などもでてきてしまうのだ。

 ようするに、吉原は遠くて足を運びにくい場所なんだということが強調されている訳です。吉原は中心地から離れていたのはもちろん、田畑が広がるなかにポンと置かれたような町でした。それは、当時の地図をみてもよくわかります(【図1、国会図書館デジタルコレクションより】)。

なんでこんなに遠いの?たくさんの遊女が働いた「吉原遊廓」が不便な場所にできた納得の理由同書より

 そんな田んぼに囲われた場所にあれば、「ちょっと別に用事があって……」なんて言い逃れもできないことがよくおわかり頂けるのではないでしょうか。

幕府と違法な遊女屋の
いたちごっこ

 しかし、これを書いた当時の名主たちは、それが吉原の欠点であると主張したいとか、場所をうつして欲しいと嘆いているわけではありません。逆に、身近に遊女屋があると、たびたび足を運んでしまうから金銭を浪費し、はては横領といった犯罪行為にもつながる。だから市中に遊女屋はあるべきでなく、現状のように「遠い」のが良いのだと主張しているのです。