東京の都市機能は「江戸時代」のままだった!大名屋敷は霞が関、職人街が銀座…写真はイメージです Photo:PIXTA

各地で開発が進み、日々発展を続ける東京。しかし、地図を見ると江戸時代から都市機能は大きく変わっていないことがわかるという。本稿は、鈴木浩三著『地形で見る江戸・東京発展史』(ちくま新書)の一部を抜粋・編集したものです。

現代まで引き継がれる
江戸からの都市機能

 今回は、明治から現代まで(1868~2022年)の約150年にわたる「東京と地形」や、それに関わる都市の変化を描いていきたい。

 この150年あまりの東京は、明治維新、富国強兵、関東大震災、第二次世界大戦、高度経済成長を経て、バブル経済の崩壊や、いわゆる「失われた30年」など、幾度となく環境の激変に遭遇し、その過程で、東京の姿は大きく変わった。

 近いところでは、昭和末期から本格化した臨海副都心部の開発に加えて、最近のいわゆるタワーマンションの急増は「見た目」だけでも、それまでの街並みを激変させている。現代に近づくほど、機械力によって、元の地形とは無関係に、土地に徹底した改変を加えるケースも増えている。

 江戸・東京の「見た目」の姿は大きく変わったと述べたが、都市としての構造や骨格には、江戸時代との連続性があるというどころか、実は少しも変わっていないものも多い。

 この変わらないものというのは、地形だけでなく、都市の機能に関しても含まれる。たとえば、現在の皇居、霞が関の官庁街、日本橋や銀座のビジネス・商業街や、道路網を含む市街の骨格とともに、それらが日本の政治・経済のシステムの中で果たす役割については、機能は高度化しているものの、多くが江戸時代から引き継がれている。

 将軍の居城であった本丸は、現在は皇居東御苑などになっているが、谷を隔てた西丸(にしのまる)は皇居である。西丸下は、老中、若年寄などの有力譜代大名の上屋敷(かみやしき)が集中していたが、役職の異動に伴った屋敷替えもあったので、単なる屋敷街というよりも、実態は“官邸街”“政庁街”に近かった。西丸下だけでなく、大名小路や神田橋門の外側、桜田門から虎ノ門にかけての場所にも、大名の上屋敷が集まっていた。

 そのため、明治政府は接収した大名屋敷を、そのまま官庁に転用することができた。こうした大名の上屋敷が立ち並ぶエリアの一部は、現在では霞が関の官庁街などに生まれ変わっている。外務省外周の石垣は福岡の黒田家上屋敷の時代から引き継がれている。

 また、御三家を含む大名屋敷が皇族邸になり、それがホテル用地になったケースもあるなど、案外、江戸時代の大名屋敷の痕跡は今日に引き継がれている。

薬種問屋街には製薬会社
職人街には有名ブランドや商店

 また、皇城と新政府を護衛する軍隊のために、大名屋敷の外長屋(そとながや)を残して他を撤去して兵営に転用したほか、練兵場(れんぺいじょう)も現在の日比谷公園の場所につくられた。とはいえ、明治20年代になると、首都の中心部に軍隊が置かれている状況は、不平等条約改正の障害となった。