森山 ああ、はいはい。
能町 「最も男らしい男」がいて、「最も女らしい女」もいて、そのあいだがいる……っていうわけではなくて、もうちょっと面的な捉え方をしたい。すごく抽象的ですけれど。
森山 今のお話を聞いて、なるほどなって思いました。性別二元論にとらわれない生き方っていうのは、男女のスペクトラム、すごく「男らしい」端っこからすごく「女らしい」反対の端っこまでの連続体の真ん中に私はいるんですっていう話じゃなくて、そのスペクトラムの上にそもそも私はいないんです、っていう。
能町 そういうことですね。「男か女か、そのあいだか」という一直線の基準自体を疑っていいと思うんです。誰もがその一直線上にいると仮定すると、どんな人も「男度20%、女度80%」みたいにふたつの基準で計れることになってしまう。じゃあノンバイナリーの人は「男度50%、女度50%」なのか?って。そんなわけないと思います。
生物学的な視点から見る
性別二元論批判
森山 私もそう思います。たぶん、男と女ってそもそもスペクトラムじゃないですよね。あえていうのであれば、「男向き」の矢印と「女向き」の矢印があって、両方を組み合わせたところにその人の性別のあり方がある、と考えたほうがまだ近い。ベクトルの足し算みたいなものですよね。
もちろん、「男向き」と「女向き」の矢印って、ベクトルみたいに独立していない。私たちの世のなかでは「男向き」矢印が伸びていくと、「女向き」矢印が短くなる、といったかたちで連動しているとみなされている。だからスペクトラムっぽくは見えるんだけど、実際としては両極端があって真ん中がある、というイメージでは不十分だと思うんです。
ああ、そうか。性別二元論批判って、「人は両端にいるとは限らないよ」っていうのと、「人はその線上にいるとは限らないよ」っていうものの2段階の批判があって、2段階目の批判までするのが大事なのかな。