SHIBUTYA109の敷地にめり込む
玉久(たまきゅう)ビルとは?

 江戸の町外れだった道玄坂が盛り場に変わっていくのは、明治末期以降のことである。1908年、町を盛り上げるために地元の商店主らは露店を誘致することに決め、毎晩5銭ずつ照明代を出し合い、恵比寿にいた露店商らを呼びよせた。この試みは当たり、大正から昭和初期にかけて道玄坂には古本屋や玩具屋など多くの露店が開かれた。

 戦前の盛り場と言えば浅草や銀座であったが、戦後は新宿と並んで渋谷が東京を代表する盛り場となっていく。そのひとつの契機が、戦後の闇市である。

 闇市研究の先駆者である松平誠は、道玄坂と文化村通りに挟まれた一角を「エネルギッシュな三角地帯」と呼び、渋谷の代表的な闇市として取り上げた。この三角地帯には戦前から映画館やビアホールなど多くの店舗が集まっていたが、戦災によってひとつの映画館を残して焼け野原となった。

 この焼け跡に、闇市のマーケットが形成された。三角地帯のマーケットは戦前からの地割を踏襲して建設されており、中には地主自身が開発したものもあった。そうしたマーケットのひとつ「道玄坂百貨街」の一角には、恋文を代筆する古着屋のエピソードで知られる「恋文横丁」もあった。

 1960年代以降に闇市は整理されていき、三角地帯には大型の商業施設が建っていく。1979年に開業したSHIBUYA109もそのひとつであるが、実は109の敷地には玉久ビルという三角のビルがめり込んでいる。

 この場所には、闇市の時代から続く玉久という居酒屋があった。109が建設されたにもかかわらず玉久は立ち退かず、2002年に自社ビルに建て替わるまで木造の平屋で営業を続けていた。玉久はその後もビルの8・9階で営業を続けていたが、2020年に惜しまれつつ閉店した。

Y字路を押さえた東急と
坂一帯を押さえた西武の戦略

 高度成長期以降の渋谷では、東急と西武の二大グループがしのぎを削った。

 まず、いち早く渋谷に参入したのは東急である。1927年には東急渋谷駅を開業し、1934年には東横百貨店(のちの東急百貨店東横店)を開いた。戦後の闇市整理においては露店商や渋谷区と交渉しながら土地買収を進め、駅前の開発を行なった。