けれど、私の父がブルーカラーの白人の多いペンシルバニア州で整備工として、そしてロサンゼルスのサウスセントラルからブレントウッドに至る地域で保険の営業マンとして体験したことは、彼を人種的アイデンティティに異常に敏感にさせ、あらゆる問題が人種に基づくものだとまで考えるようにさせた。
私たちがテーブルに着くのを待っているのに誰かが先に席に案内されたら、父はそれを自分たちがアジア人であるせいだ、と考えた。飛行機の後ろの方の座席に座らされたときは、自分がアジア人だからだ、と言った。
オハイオ州オーバリンでの最初の週に両親が大学寮の私の部屋を訪ねてきたとき、父は私のルームメートの父親と握手をした。すると相手は、あなたはどこの出身ですか、と聞いてきた。父が韓国ですと答えると、ルームメートの父親が私は朝鮮戦争で戦いました、と熱心に語り始めた。
こわばった笑みを浮かべた父は、それに一言も答えなかった。
オーバリン大学で父が私のクラスメートの父親と顔合わせをしたあと、私は父を叱った。「どうしてあんなに不作法だったの?なぜ何も答えなかったの?」車の中にいた私たちは、母も一緒にクリーブランドに行くところだった。

両親は韓国料理屋に行きたがった。イエルプがまだない時代だったので、父はイエロー・ページでキムという名前を探し、でたらめな相手に電話して良いレストランを教えて欲しいと訊ねた。相手は韓国人から電話が来たことに喜び、私たちを案内したい、と申し出てくれた。
「俺はお前のルームメートの父親に、朝鮮戦争で戦ってくれてありがとうと言えばよかったのか?」父はついに言い返した。「それがお前のして欲しかったことなのか?」