人は、生まれながらの運によって持っているものが違います。例えば人種や性別、生まれる地域、親、障害など、さまざまなものが運に左右されます。われわれの意思ではどうしようもできないことです。だからこそ、このような運によって人生の機会が左右されないように補整する必要があります。
機会が均等になるように、運の要素をなくしていくことが重要です。そして、機会の均等が提供されれば、その後の選択や成果は各人の自由意志によるものです。運による結果は補整されるべきですが、機会が均等になった後は、それは個人の選択の結果として受け入れるべきです。これが運平等主義の中心的な考え方です。
職を失う労働者への
援助は必要なのか?
運平等主義の下で、イノベーションによってある人のスキルが代替され、失業する状況を考えましょう。もし、この人に十分な機会が提供されていた場合、多くの人は援助を必要としないと考えるでしょう。なぜなら、失業の原因がその人の選択に基づくものだと解釈されるためです。十分な機会が与えられた状況での失業は、自己責任とみなされるのです。
一方で、教育や職業選択の機会が限定されている状況、例えば家庭の環境や居住地域、障害や差別による制約などが原因で新しいスキルを身につけることが難しかったり、スキルのアップグレードができていなかった場合、援助は正当化されます。これは、そのような制約が個人の選択とは無関係であるためです。
均等な条件下での自由な選択の結果として生じた事象については、それは自己責任として受け止めるべきという考え方が一般的に広まっています。2001年初め、ナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)、カイザー・ファミリー財団、そしてハーバード大学ケネディスクールが行った全米世論調査での質問の一つに次のようなものがありました。
それは、「今日の貧困の大きな原因は何か。それは、人々が貧困から抜け出すための自助努力を十分にしていないことと、人々がコントロールできない状況によって貧困になっていることのどちらだろうか」です。皆さんならば、どう答えるでしょうか。この時の回答は、「自助努力が足りない」が48%であり、最も大きな割合を占めたのです。