このことについては出版業界隈でもさまざまな次元の論点が提出されてきたが、現時点から振り返ってみると、やはり当時の学校教育の置かれた状況こそは最も本質的な要因のひとつであったように思われる。
すなわち1980年前後は、全国の中学校や高等学校で「校内暴力」の嵐が吹き荒れる状況下にあったわけで、このような社会的背景こそは、同書で描かれたトモエ学園の教育に対する共感を増幅させる効果をもったことはまちがいないはずである。
実際に同書の「あとがき」の末尾に、「1981年。――中学の卒業式に、先生に暴力をふるう子がいるといけない、ということで警察官が学校に入る、というニュースのあった日。」と記されていたことは、きわめて象徴的と言えるだろう。
現実の学校教育の閉塞状況という社会的認知の下地があったからこそ、それに対するコントラストとして、トモエ学園のユートピア性がよりいっそう際立つという構図が成り立っていたわけである。
ここであらためて「校内暴力」を見出しに持つ新聞記事を各社の記事データベースで検索してみると、図3-2に見られる通り、1980年から85年にかけての期間が、その社会問題としてのピークであったことが確認できる。

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「校内暴力」とは文字通り、生徒が学校内で起こした暴力事件のことであり、具体的には生徒間での暴行や恐喝、窓ガラスを割るなどの器物破損行為などであるが、それ以上にこの時期にとりわけ注目を集めたのは対教師暴力であった。
『警察白書』から見える
深刻化していた校内暴力
たとえば「深刻化する校内暴力」というタイトルでこの話題を取りあげた昭和56年版の『警察白書』には次のような事例が挙げられている。
校内番長グループの中学3年生A(15)は、休み時間に教室でカセットテープをかけて大騒ぎしているところを教師に見付かり注意を受けた。Aを含む校内番長グループ9人は、これに激高し、竹刀を持って職員室に押し掛け、6人の教師に頭突き、足げり、顔面殴打等の暴行を加えた。この少年たちのグループは、暴走族「一寸法師」の影響下にあった(警視庁)。