卒業生で暴力団員となっている少年(18)の影響を受けて、同級生から現金を脅し取っていた校内番長グループの中学生四人(14、15)は、級友を殴ったことで教師に注意され、これに激怒し、校舎の屋上に教師6人を呼び出して革ベルト等を振り回し、殴る、けるの暴行を加えた(神奈川)。
中学3年生A(15)が音楽室横のシャッターにいたずらしているのを教師に注意されたことから、Aら仲間の中学生23人は、教師の注意の仕方が悪いと激高して職員室に押し掛け、12人の教師に殴る、けるなどの暴行、脅迫を加えた(三重)。
高校2年生(17)は、盗み等の非行で仲間の2人とともに学校から謹慎処分を受けたが、ほかの2人が既に処分解除となっているのに自分は処分解除にならないのは片手落ちであるとして、生活指導担当教師を海岸に呼び出し、ヌンチャクで頭部を殴打するなどして全治1週間の傷害を与えた。さらに、「おれも坊主になったからお前も坊主になれ。」と、その教師を理髪店に無理矢理連れて行き、丸坊主にさせた(長崎)。
じつにおぞましい状況とは言えるが、ただし、当時報道の対象ともなったこれらの事例が、あくまで極端なケースであったことは忘れられてはならない。そして前記の記事件数の推移もまた、それは社会問題としての扱いの指標たりえても、必ずしも実態として学校内での暴力行為の動向を正確に映し出すものではなかったことには注意が必要であるだろう。
前記の『窓ぎわのトットちゃん』の「あとがき」には、中学校の卒業式における暴力をめぐる話題が取り上げられていたが、「お礼参り」と称して気に食わない教師を卒業時に集団で襲うという行為なら、かなり以前から頻発していたことも、いわば周知の事実だった。
「校内暴力」は
学校の機能不全のせいとされた
要するに1980年代以前は「校内暴力」という定型句がまだ確立していなかっただけで、学校内での暴力そのものは発生もしており、そして一定程度の報道もなされていたわけである。
このように見てくると、1980年代の「校内暴力」問題とは、つまりは人々の不安状態を投影した一種のモラルパニックの様相を呈していたことが了解されてくる。
ここで重要なのは、このような病理現象を、この当時における学校教育そのものの機能不全によって引き起こされたものとして捉える認識が、社会的に広く共有されていたことである。手近なところで新聞記事から引用すると、たとえば次のような記述のスタイルはその典型と言えるだろう。