三田紀房の受験マンガ『ドラゴン桜2』を題材に、現役東大生(文科二類)の土田淳真が教育と受験の今を読み解く連載「ドラゴン桜2で学ぶホンネの教育論」。第4回は「個性の意味」を考える。
「今の子どもたちに熱血は通じない」→本当にそう?
“個性の神格化”が進みすぎていないか?
龍山高校の学年集会で突如「東大を目指せ!」と叫び、生徒たちを罵倒した東大合格請負人・桜木建二。
「今の子どもたちに熱血的なやり方は通じない」「誰も入りたいとは思わないだろう」と反論する教師たちに、桜木はこう告げる。「本当にそうか?」「個性を尊重すると言いながら、子どもの個性を見極めようとしないのはお前らだ」。
桜木の言葉通り、「東大専門コース」の教室前には2人の生徒が現れた。
「個性の尊重」「個性的な生き方」そんな言葉が登場するようになってしばらく経った。近年は「多様性」という言葉と結びついて、なにやら「個性的である」ことが最高善であるかのような風潮になっている。
「個性」という言葉を聞くたびに、中学2年生で取り組んだ国語の文章を思い出す。鷲田清一の『自由の制服』である。高校の検定教科書に採用されたこともあるというから、ご存じの方も多いだろう。
一般的に、制服は抑圧の象徴とされがちだ。制服を捨てて初めて、私たちは個性を手に入れることができるのだ――と。
だがこの作品は、制服を社会的な属性や居場所を与えるものとして捉えている。制服があるからこそ、特定の学校に属する学生、あるいは特定の職業に携わる社会人としての社会的価値が与えられるのだ。
制服は自分を「匿名の人間類型の中に埋没(同書より)」させてくれる。同時に、個性的でなくてはならないという強迫観念から逃れることもできる。
この考え方は、中学2年生の私に「個性とは何か」という問いを与えた。今でもなお、思索中である。
大切なのは外側の個性だけでなく
目に見えない「内面の個性」を考えること
近年は「ルールメイキング」「生徒自治」として制服の自由化や頭髪規則の緩和の動きが全国各地で起きている。高校時代にその活動に触れた者としては、素直に嬉しい。
当然、人権侵害にもなりかねないブラック校則はなくなるべきだ。また、自分たちを縛る規則の正当性を検証し再構築する過程は、まさに「社会の縮図」である学校の本分とも言える。もっとも、そのためには一定の知識やモラルが求められるが。
だが、こうした動きを「個性の尊重」という文脈で使うには少し危険だと私は思う。
自分が本当に主張したい「個性」が、「外側」の個性に隠れてしまうことはないだろうか。
「外側」が同じだからこそ際立っていた「内側」の個性が、「外側」を変えることで隠れてしまわないだろうか。
金髪の人が、「金髪の人」以上の個性を獲得するためには、そうでない人よりも多くの内面的な自己主張が必要になるかもしれない。
断っておくが、なにも制服を着るべきだ、髪を染めるなと主張してるわけではない。実際私の高校は服装も髪型も自由だった。
ただ、「個性の尊重」という意味で制服を脱ぎたいなら、「個性」とは何かという答えのない哲学的な議論を重ねてほしいというだけだ。
特に教育分野では、「個性」という言葉が独り歩きしているようにも思える。「個性」を求めるあまり、その個性を分類し、タグ付けし、マニュアル化してはいないだろうか。
個性的とは、固定的ではない。時間や場所によって変化していくものだと思う。だから、「自分らしさを出す」というのがよくわからない。
当然、ありあまる個性が外見を変えることはあるだろう。だけど、「自分らしさ」は何かを身につけることによって得られるものではなく、ただ自分がそこにいることで存在するものだと思う。