新幹線の座席写真はイメージです Photo:PIXTA

山陽新幹線は3月10日、新大阪~博多間の全線開業から半世紀を迎える。東海道新幹線に続く第2の路線としてさまざまな新技術が導入され、今もJR西日本の屋台骨であり続ける同線には「夜行新幹線」構想が存在した。なぜこのような構想が浮上し、そして消えていったのか。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也)

国鉄の経営再建の切り札と
位置付けられた山陽新幹線

 日本に新幹線時代をもたらした東海道新幹線は、東海道本線の輸送力逼迫を抜本的に解決するために建設された。在来線の複々線化で対応する案もあったが、時速200キロ以上の高速運転が可能な「広軌別線」方式が選択された。

 東海道本線に続いて輸送力増強が必要になった山陽本線でも在来線の複々線化と広軌別線が比較検討されたが、東海道新幹線の成功を受けて、時間距離短縮効果の大きい新幹線を建設し、あわせて国鉄の体質改善と、近代交通機関への脱皮を図ることとした。

 世界初となる時速200キロの営業運転を実現するために、実証済みの既存技術をベースに開発された東海道新幹線に対し、山陽新幹線は来たるべき「新幹線時代」を見据え、東海道新幹線の反省と教訓を反映した最新技術を積極的に取り入れた先進的な計画となった。

 こうして東海道新幹線開業の翌年、山陽新幹線新大阪~岡山間の建設が認可され、新幹線建設は切れ目なく動き出した。山陽新幹線に対する国鉄の期待がいかに大きかったのかは、国鉄新幹線建設局長が日本鉄道技術協会誌『JREA』に寄稿した「山陽新幹線の国鉄に占める役割と建設の沿革」からうかがえる。

 新大阪~岡山間が開通した1972年、国鉄の累積赤字は8000億円を超え、財政危機が顕在化していた。国鉄が赤字転落したのは奇しくも東海道新幹線が開業した1964年のことである。1968年に運輸大臣の諮問機関として国鉄財政再建推進会議が設置されると翌年、答申をもとに日本国有鉄道財政再建促進特別措置法が成立。1970年から財政再建計画に着手した。

 約5400億円の予算でスタートした山陽新幹線計画(実際にはオイルショックの影響で工費は約8200億円に達した)は経営再建の切り札と位置付けられた。