夜行新幹線構想が
浮上した理由
ただ、最高速度時速260キロは将来的な構想で、開業時点では東海道新幹線と同様に時速210キロだった。また、開業直後は地中に空洞がある炭鉱地帯、スラブ軌道とバラスト軌道が接する区間は構造物への影響を調査するために減速運転を行ったことで、東京~博多間は6時間56分を要した(1980年に速度制限を解除し6時間40分に短縮、現在は最短4時間52分である)。
国鉄は当時、この所要時間では旅客の夜行列車選好率は約20%に達すると推計した。今や定期運行の夜行列車は「サンライズ瀬戸・出雲」だけとなったが、当時は多くの夜行特急・急行列車が運行されており、夜行列車は長距離移動の有力な選択肢だった(2月3日付「『ブルートレインや食堂車が懐かしい…』国鉄の歴史を超えたJR『37年の変化』が凄すぎた!」 参照)
山陽本線も多数の夜行列車が運行されており、夜間に貨物列車を増発する際のネックになっていた。そこでこれらを新幹線に転移するため、博多開業時に所要時間10~11時間程度の夜行運転を行う必要があると考えた。これが夜行新幹線構想である。
夜行運転にあたり最大の問題が、連続した6時間の保守作業時間の確保だった。そこで深夜は新幹線を単線運転、つまり、1線は保守作業を行い、もう1線で夜行列車を運転するという案が浮上し、山陽新幹線は将来的な夜行運転に対応できる設備で建設された。
夜行列車は東京~博多間のほぼ中央にあたる新大阪~岡山間で上下列車が行き違うため、この区間に待避線が必要になる。そこで、同区間161キロに5駅を配置し、平均駅間距離は東海道新幹線の約43キロより短い約32キロとした。また、各駅の前後に夜行列車単線運転速度の時速70キロで通過できるポイントを設置し、夜行運転中の保守作業を考慮した電気設備や、信号設備を備えている。
ところが、夜行新幹線は実現しなかった。博多開業の前年、国鉄の機関誌『国鉄線』で旅客局営業課総括補佐は「夜行運転は、その必要性は認められるが、騒音・保守などの面でなお解決を要する点があるので、当分の間、行わない」と述べている。
当時、高度成長の終了とともに騒音・振動など公害問題への関心が高まり、1974年には新幹線の運行差し止めを要求する「名古屋新幹線訴訟」が起こされた。1975年には騒音に関する環境基準が定められ、深夜の運行が許容される時代ではなくなっていた。