桃栗三年柿八年
だるまは九年
俺は一生
がある。ここにある発想は持続する不屈の意志である。時流などはどうだってよい、退歩しつつ、自分の思った通り生きるという姿勢である。
武者小路実篤に見る
「望ましい死」
武者小路実篤は志賀直哉が死んだときから呆けはじめ、原稿も誤字脱字が多くなり、文章のなかでは同じ言葉の繰り返しが多くなった。主語述語がおかしい文章で、「武者さんの原稿はどんなものでも直すべきではない」と小島政二郎(編集部注/小説家、随筆家、俳人。1994年、100歳没)が言ったこともあって、雑誌「心」には文意不明の詩が掲載された。しかしそれはそれでいい。下り坂を降りきって、村の細道で脱輪してしまったってかまわない。
実篤の耳が遠くなったのは米寿(88歳)を祝うころからで、絵や画賛にも以前のような力がなくなった。89歳のときには「もうじき90歳になると思っているが出来るだけ長生きしたい」とノンキなことを語っている。
実篤の決定的な老化は、昭和53年1月25日、妻の安子を見舞った翌々日であった。子宮癌で入院していた妻を、車椅子に乗って見舞いに行き、ベッドの安子と長い間手をとりあっていた。安子は夢うつつのまま、幻として脳裡に浮かんだ黒葡萄を「召しあがれ」と言って実篤に差し出し、実篤はショックのあまりその翌々日から失語の人となってしまった。
安子は2月に死に、実篤は安子の死を知らされぬまま2カ月後の4月9日に息をひきとった。夫婦とも呆けて死ぬのなんて、なんと幸せなことだろうか。ぼけることは死の恐怖を克服する効用がある。
ワイズマンという人は「望ましい死」に関して「まず、それぞれの人が望んでいた死であり、つぎに親しい人々と心ゆくまで別れを惜しむことの死であり、さらに心残りや苦しみの少ない死である」と規定している。実篤の死はワイズマンによる「望ましい死」の典型だろう。人口ピラミッドグラフは、60代あたりを頂点にして山型のカーブを描いていく。頂点を過ぎると下降していきます。