
幕府の権力闘争は表向き穏やかでも、裏では血生臭い陰謀が渦巻いていた。大河ドラマ『べらぼう』で生田斗真演じる一橋治済は、絶大な権力を誇った田安定信を追放し、家基の不審死や田沼意次の失脚に関与したとささやかれている。芸能界随一の大河マニア・松村邦洋が一橋治済の“怪物”ぶりを解説する。※本稿は、松村邦洋『松村邦洋 懲りずに「べらぼう」を語る』(プレジデント社)の一部を抜粋・編集したものです。
徳川将軍家を揺るがす
不可解な死の裏に一橋治済?
ここからは、田沼時代から定信・寛政の改革までを、治済の立場からお話ししますね。
重要な人物が何人か死にます。というか殺されます。
もちろん、「殺した」なんていう記録は残っていませんし、その証拠が今さら出てきたわけじゃないですから、ぜんぶ憶測と言えば憶測です。
でも、治済が殺させたと考えるとツジツマが合う、という人の死がけっこうあるんですよ。将軍の血筋をめぐるドロドロが、実は徳川にもあったことを、今まで大河で描いたことはありませんから、そこを頭のスミに置いとくと、もっと楽しめますよ。
一橋治済は1751(宝暦元)年、一橋家の2代目――吉宗の孫ですね――として生まれます。田沼意次よりも32歳年下で、息子の意知よりもさらに2歳年下。8歳で徳川を名乗り、14歳で一橋家の家督を継ぎます。
徳川幕府「中興の祖」で「家康公の生まれ変わり」とも言われていた名君・吉宗の孫ですからね。将軍になりたい、という野心はもちろんあったと思います。
しかし、ライバルが超・強力でした。8歳年下の田安定信、後の松平定信なんですよ。