定信は治済と同じ吉宗の孫。1758(宝暦8)年、御三卿・田安宗武の七男として生まれました。幼名は賢丸。上の兄弟は生まれて間もないうちに多くが亡くなっていて、家督を継いだのは宗武の五男の治察なんですが、病弱でしかもさほど賢いというわけではなかったんだそうです。

「約束のホゴ」が生んだ
松平定信と田沼意次の確執

 それに対して、定信は幼い頃から賢くて優秀。「吉宗の生まれ変わり」とまで言われたほどで、将軍後継者の大本命だったんです。

 そこで、治済はまず意次と手を組むんですよ。意次は徳川将軍家の家治とがっちり組み、その嫡男の家基の母・知保の方、早くに死んだ次男・貞次郎の母・お品の方―――と、将軍家周りは大奥までパイプがあったんです。そして実は治済の嫡男・家斉の生母、お富の方ともしっかり繋がりを保っていました。さすがに抜け目がないですね。

 意次は家治に続いて家基とも仲良くやっていきたいですから、3歳年下の家基を追いつめかねない定信は、やっかいな存在だったわけです。

 治済はそのあたりの力関係は十分承知していますから、まず意次と組んで17歳の定信を東北の11万石の弱小藩・白河藩――今の福島県白河市です――松平家に養子に出させるようアドバイスして、それを成功させるんですよ。

 定信の兄・治察には子がいなかったから、田安家は反対するんですけど、田安定信が松平定信になって、ハイ一丁上がり!となったわけです。

 治察が早くに亡くなったとき、田安家は白河家から定信を取り戻す約束を意次としていたはずが、それをホゴにされたと言われています。定信の意次に対する恨みつらみのルーツは、この時でしょうね。

ただの「落馬事故」じゃない?
江戸幕府を揺るがせた家基の急死

 問題はその4年後、1779(安永8)年2月21日、江戸・東海寺と御殿山――今の東京・北品川のあたりです――に鷹狩に出かけた家基の死なんです。

「今朝、上検校の立会いのもとで大通詞(通訳)、小通詞により私は知らされたのであるが、昨日、将軍の世継は、狩の途中落馬し、鞍が胸に落ちた。彼はかなりの量、二瓶以上の出血があったらしい。彼は城へ連れられたが、その後、間もなく死去した。将軍はこのことを非常に深く悲しまれたため、ほとんど発狂寸前で、その苦悩のあまり、身分の高い人々を幾人か打ちのめし(て殺し)さえした」
(秦新二・竹之下誠一『田沼意次百年早い開国計画』より)