これについて、ティチングっていう名前のオランダ人商館長が書いた『日本風俗図誌』っていう記録があるんです。
幕府のけっこう地位の高い役人と知り合いだったそうですね、このティチングっていう人は。もちろん名前は記録には書いてませんけど、その役人はかなり詳しく知っていたらしくて、ティチングは「幕府の高官が殺人を指示した」ってほぼ断定してるんですね。治済の名前は書いてないけど。
この記録だと、意知といっしょに御用部屋を出た同僚3人は、普段なら自分たちの駕籠に乗る前に立ち話をするのが常なのに、この日は急いで歩いて意知を置き去りにしてたんですね。しかも、意知が政言に斬られたとき、
「番士たちが物音を聞きつけてやってきたが、相当ゆっくりやってきたらしく、善左衛門(政言)に逃げる余裕を与えてやろうという意図があったと信ずべき十分な理由がある」
と断言してます。しかも、3人とも何の処分も受けてないし、城内の目付、つまり監視とか管理・監督役も意知が襲われてるのを遠くから見てただけ。ひとまず上に叱られて「免職」と言われてたけどそれも結局なくて、元通り目付に復帰したそうです。
その場にいた目付たちは誰も意知を助けず、それによって誰も罰を受けてないんです。いやー、怖いですねえ……。
病床の家治に処方した謎の「秘薬」
“最後のひと匙”で田沼が失脚
意知暗殺から間もなく、意知暗殺の現場にいた50歳の若年寄が1人、辞職して死亡。10月には、オランダ商務館の記録で「田沼が失脚することがあれば、彼は切腹する。もし切腹しなかったら、毒殺される可能性がある」と書いてあった開国派の長崎奉行が48歳で死亡……と、とにかく人がバンバン死んでいったんですね。
それも意次派、一橋派に関係なく。ヤバいですよ。治済が、敵はもちろん味方だった人も「もう要らない」「しゃべられたら面倒」と目をつけたらどんどん消していったんじゃないかと言われてます。
そして翌1786(天明6)年夏、10代将軍・家治が突然倒れます。