野中郁次郎:知を探究し続けた人

2017年夏、「ダイヤモンドクォータリー創刊1周年記念フォーラム」が開かれ、基調講演は、野中郁次郎先生だった。演題は「日本の経営イノベーション宣言——経営者は『知的機動力』を発揮し、組織を再創造せよ」で、まさしく野中先生ならではのタイトルである。ちなみに、同誌創刊号のカバーストーリーにもご寄稿いただいている。

この日、先生には内緒のゲストが来ていた。元ダイヤモンド社社長の川島譲氏である。いわく「野中先生と久闊を叙したい」とやってきた。彼は先生より1歳年下で、旧知の間柄だという。実は、川島氏こそ『失敗の本質』(ダイヤモンド社)を世に送り出した人物なのだ。

控室で、お2人は当時のことをしばし懐かしんでいたが、やがて『失敗の本質』の誕生秘話に及んだ。この書籍企画を持ち込んだ当時専務だった川島氏によれば、ダイヤモンド社内では、反対派が多数だったそうである。理由は、「失敗」という言葉の印象が悪い、単著ではなく共著であり、しかも6人もいるなどだった。もちろん本一冊をめぐって大騒ぎになることはなかったが、川島氏の力技もあって企画は通ったものの、ほとんど期待されていなかったそうだ。しかし結果は予想を裏切り、皆さんが知るようにベストセラーとなり、文庫になったいまでは、小池百合子東京都知事が「私の愛読書」と語ったほど、多くの人たちの共感と支持を得ている。

先ほどのフォーラムのみならず、野中先生には、いろいろお世話になっている(弊社だけではないだろう)。私事になるが、1990年、私にとって2冊目の書籍『デザインマインドカンパニー』(ダイヤモンド社)の翻訳者は、野中先生とその後先生の知的パートナーとなる紺野登氏である。ほとんど知られていないが、当時野中先生は、米国ボストンに1975年に設立された学際的研究機関「デザイン・マネジメント・インスティテュート」(いまも活動中)で唯一の日本人理事であり、別の言い方をすれば、いまや日本でも市民権を得た「デザイン経営」に先鞭をつけたのが野中先生なのである。多くの人が知らないもう一つの顔といえる。

『デザインマインドカンパニー』は、製品における機能的・技術的な差別化が限界を迎えており、デザイン(=スタイリング)が新たな競争優位を創造するという内容だった。野中先生はこの頃から人間の知識創造に並々ならぬ関心を寄せており、原著者のクリストファー・ロレンツ氏の主張にいたく共感し、訳者を引き受けてくださった。

この『デザインマインドカンパニー』は、「ダイヤモンド・デザインマネジメント・ネットワーク」というマルチクライアント事業の旗印でもあり、出版後にはティーザー的な“打ち上げ花火”として、出版記念セミナーが開催された。この件で、先生はご記憶なかったと思うが、お詫びしなければならないことがある。

当時はオーバーヘッドプロジェクター(OHP)にスライドを投影して指示棒を使っている時代だったが、このセミナーのためにまだ珍しいレーザーポインターを購入した。私は裏方の一人だったが、このレーザーポインターを、使い方の説明をせぬまま先生に渡してしまった。そのせいで、先生はこれをマイクと勘違いして、レーザーをご自身に照射してしまった。赤い光の点が口元に映り、会場のそこかしこで失笑がこぼれた。私のおざなりな仕事のせいである。講演に支障が生じることはなかったが、若気の至りで自分の失敗を認められず、先生に謝ることなくそのままやり過ごしてしまった。もう30余年も前のことなので、きっと笑って許してくださるに違いないが、この場を借りてお詫び申し上げたい。

それにしても、その後も何度か先生にご講演をお願いしているが、必ず会場の笑いを取ってから、肝心のお話を始められる。もしかすると、あれも演出だったのかも……と思ったりもする。

最後に、知識創造理論に関する誤解を解いておきたい。野中先生の大きな功績は「暗黙知を形式知に変換する必要性を説いた」と信じ込んでいる方が少なくない。たしかにそう言われたことはあるものの、それが先生の伝えたい本質ではない。このような取り違えが生じたのは、1990年代のIT黎明期にPCメーカーやSIer(エスアイヤー)が営業目的で「暗黙知の形式知化」をことさら強調したことによる。むしろ、『暗黙知の次元』(紀伊國屋書店)を著した本家本元のマイケル・ポランニーが主張したように、「形式知化できない暗黙知」こそイノベーションや創造性の源であると力説されている。まったくのお門違いである。

「測定できないものは管理できない」をピーター・ドラッカーの言葉だと信じて疑わない人が世界中にいるだけでなく、アダム・スミスの「見えざる手」を都合よく解釈している人も大勢いる。偉大な思想家には、このように自分勝手な解釈が付き物であり、死の間際まで知の求道者であった野中郁次郎先生も例外ではない。

合掌。