下町の避難者を他人事のように
見ていた山の手の人々
地上では炎がくすぶっているのだから、銀座線の浅いトンネルに煙が流入するのは当然だろう。高田さんとは反対に、下町から避難する列車に乗っていたのが井沢信子(当時10歳)さんだ。高田さんが語る車内の様子は空襲と地続きの地獄絵図だ。
「新橋に遠い親戚があるので、そこで一晩か二晩とまってから田舎へいくつもりでした。不思議に地下鉄は動いていたから、今の銀座線に乗って新橋へ向かいました。電車の中は負傷者が満ち溢れています。少し触れただけでも、『痛いよ!』とか『熱いよ!』とか叫んでいるのです」
ただ、山の手の人々は、焼け出された下町の避難者を他人事のように見ていたという。早川国雄(当時37歳)さんは10日、郷里の山梨に避難するため地下鉄に乗り、渋谷経由で新宿に向かった。
「人がいっぱい死んでいる道を歩いて松屋デパートまで行き、新宿から中央線に乗るというわけで、地下鉄で渋谷まで行きました。ところが、東京というのは狭いようでけっこう広いんです。渋谷に出たら、『どうしてそんな格好してんだ』とか、『浅草の方は夕べやられたんだって』という調子です」
「対岸の火事」は言い過ぎとしても、次はわが身と思わなかったのだろうか。それほどまでに死と生が紙一重で、裏表で、現実感のない異常な日常だったのである。

東京大空襲で導入された夜間・低空・焼夷弾攻撃は想定以上の戦果を収めた。続いて3月12日に名古屋、14日に大阪、17日に神戸、19日には再び名古屋と立て続けに300機近いB29を投入した大空襲を行った。
一連の「焼夷弾電撃作戦」でマリアナ基地の焼夷弾は底を突き、作戦はしばらくの間、中断されたが、4月に入ると東京の空襲は再開する。4月13日に東京北部、翌14日に東京南部、5月24日に東京南西部が焼失。翌25日の通称「山手大空襲」で、残る市街地全てが焼き払われた。
山手大空襲は地下鉄の終電間際に行われたため、駅員や乗務員が対応に追われたという記録、証言が多数残っている。今後の調査で新事実が見つかれば別途、記事化を検討したい。
石川さんのような貴重な証言は、まだまだ眠っているのかもしれない。