着物のあちこちが焼け焦げて…
空襲翌日の地下鉄の光景
こうした証言を総合すれば、浅草駅の松屋口、吾妻橋口のシャッターは少なくとも一時、開放されており、線路を歩いて避難できたこと、実際にそのようにした人がいたこと、上野駅も避難場所となったことが見えてきた。
当時の規則・通達は地下鉄駅への避難を認めていなかったので、公式に「駅を開放した」とは言い難かった。その中で駅のシャッターを開けたのが駅としての判断だったのか、駅員個人の判断だったのかは定かではないが、地下鉄に命を救われた人がいたのは事実である。
同時に、無念にも地下鉄で命を落とした人も多かった。福島一雄(当時15歳)さんは『東京大空襲・戦災誌』で、「道端にも転々と死体がころがっている。地下鉄のシャッターの隙間からは、救いを求めている手が何本も何本も…」と証言している。私たちが普段使う駅には、このような暗い歴史があることを忘れてはならない。
悪夢のような空襲から明けた3月10日朝、焼け野原を目の当たりにした人々が茫然自失となる中、地下鉄は運行を開始した。前述のように、駅周辺あるいは駅構内にも死体があふれていただろうが、立ち止まるわけにはいかなかった。
3月10日の地下鉄の様子を証言するのは高田良子(当時19歳)さんだ。花川戸で叔父と住んでいた高田さんは空襲当日、小田急線沿線に疎開する家族を訪ねていたため無事だったが、叔父の安否を確認するため浅草に向かった。
「早朝、5時半か6時ごろの電車に乗りました。新宿までは小田急線が順調に行きましたが、そこから中央線で四ツ谷に入った辺りから停車しながらノロノロと御茶ノ水まできたところ、御茶ノ水から先は行かないというのです。これから大空襲の中心地へ向かおうというのですから、逆コースであれ、さすがに乗客は少なかったです。私は神田まで歩きました」
「神田からなら浅草に行く地下鉄が通っているだろうと、地下鉄のホームに降りたところで、はじめて親子づれの被災者に出会いました。それこそ浮浪者ともつかない焼けただれた防空頭巾をかぶり、着物のあちこちが焼け焦げている二人を見たときは、本当に驚いたものです」
「地下鉄は比較的順調に進んだものの、上野のホーム辺りから煙がたちこめだしているのです。何とか浅草に辿りつくことができ、現在の吾妻橋寄りの出口から外に出ました。わずか一日の間に何たる変わりようでしょう」