地下鉄の駅構内に入って
九死に一生を得た人たち

 飯塚政司さん(当時26歳)も同様の体験をしている。

「私は最初、仲見世付近から言問橋方面へ逃げようとしたが、激しい火の粉で逃げられず、吾妻橋へ、と思ったところ炎が這っているのだった。ようやくのこと、松屋デパートの地下鉄入口側のシャッターを開けてもらい、中に避難したのである。そこには私より早くおおぜいの人が逃げ込んでいた」

 実は松屋デパート地下のエピソードは『東京大空襲・戦災誌』にも登場していた。杉山春子(当時20歳)さんは父母から聞いた話として、次のように述べている。

「やっとの思いで松屋デパートへ逃げ着いたときには、難をのがれてうずくまっている人でいっぱいなので、その人たちの上を夢中で乗りこし乗りこし逃げこんだそうです。熱くて呼吸苦しくおそろしさとで一心に祈る人が、つぎつぎと声がなくなり息たえて死んでいくなかで、父、母たちも死を目前にしているときに、地下鉄のよろい戸が開き、空気が流れてきたので助かったのだそうです。いっとき、空気の流れが遅ければ回りの人たちと同じように息絶えていたと申します」

 この証言だけでは空気が流れてきただけなのか、地下鉄の駅構内に入ったのか不明だったが、早見さん、飯塚さんの証言で、地下鉄に入って九死に一生を得た人がいることが明らかになった。もっとも助かったのは幸運な一部の人にすぎなかったが。

 他の地域ではどうだったのだろうか。地下鉄職員だった女性は後年、「その晩も泊まり動務で上野駅近くの合宿所にいた。空襲警報発令。高射砲がとどろいた。真上にB29。爆弾投下。約500メートル離れた地下鉄入口へ走った。地下鉄が防空ごう代わりになって助かった」(1977年12月23日付毎日新聞)と証言している。

 この他、また聞きであるが、筆者の知人の祖母が上野駅周辺の出身で、東京大空襲の日に地下鉄職員の誘導でトンネルに避難したと語っていたという。トンネルを進むと上野駅についたというので、銀座線の上野車両基地から車庫線を辿っていったのだろう。