白旗を贈ってきたペリーの無礼

 ペリーのえげつなさを例に挙げれば、黒船に当時の世界最新鋭兵器ペクサン砲を搭載し、空砲をぶっ放して脅すという、ガキ大将が拳を振り回すような砲艦外交をやってきたことであろう

 脅しというのは単純で派手な方が効き目がある。

 さらにペリーは二流の白旗を日本に贈与した。「降伏する時はこれを使え」という意味である。なんたる無礼かと思うが、この白旗についてペリー自身の記録からは削除されている。いくら厚顔なペリーも、こんな下品な外交は世間に言えなかったものとみえる。

 ペリーとの間で日米和親条約が結ばれてから4年後(1858年)、駐日アメリカ領事のハリスから幕府はこんなことを言われた。

「イギリスやフランスが日本を侵略するぞ。でも、アメリカと通商条約を結べば防げるぞ」

 この言葉に乗せられ、今度は通商を含む日米修好通商条約を調印。おや、どこかで聞いたことがある。

「ウクライナの鉱物資源開発にアメリカが関与すれば、それがウクライナの安全保障につながる」(トランプ)

 この既視感は、幻ではあるまい。

 その後日本はイギリスやフランスなど欧州列強とも同じような条約を結ぶが、いずれもひどい内容で、外国人が日本で犯罪を犯しても日本では裁けなかったり(治外法権)、関税も日本は自分で決められないなど、不平等な状態はなんと、大正時代の寸前まで続くのである(治外法権の廃止は1894年、関税自主権回復は1911年)。

 かかる失態はなぜ起きたのか。日米和親条約(以下「和親条約」と記す)、日米修好通商条約(以下「通商条約」と記す)という二つの失敗から考えたい。

 第1の失敗。なぜ幕府は両条約を受け容れざるを得なかったのか。黒船来航当時、江戸で流行った狂歌がある。

「アメリカが きても日本は つつがなし」

 アメリカがやってきてもつつがない(大丈夫)、という意味ではない。「砲(つつ)がない」、つまり対抗するだけの武力がない、ということである。

 ペリーから贈られた白旗のことは記したが、蒸気船に巨大砲、今風に言えば最新鋭ミサイルをちらつかせて、「開国しなければ攻撃するぞ」と脅されたら対抗できるわけがない。

 例えば日本の海防は当時、国内で統一した軍隊が無く、大名や旗本は各々担当区域を決められ防衛を受け持った。だが装備もバラバラ、指揮命令系統も実戦的とはいえない中で、どうやって国を守るというのか。