「国づくり」のヒントは明治政府にあり

 幕府はおよそ800万石という膨大な領地を支配していたが、江戸時代後期、財政は逼迫していた。黒船来航の20年前に発生した天保の大飢饉はそれに拍車をかけた。幕府は黒船来航の前年、オランダから「アメリカが開国を迫ってくるぞ」との報せを受けていたが、財政難で、目に見えない危機に対する予防的な予算措置が執れなかった。

 また仮に財政が軍備増強を許したとしても、例えば高禄の旗本たちは鉄砲を担ぐことを「足軽のようだ」と嫌がって、西洋式の訓練はできない。幕府はその後の軍制改革で規模としては日本最大の西洋式歩兵組織を持つが、下士官不足で実力は発揮できなかった。急造の組織にありがちな、現場指揮官の不足である。

 結局幕府は、起こるかもしれない危機への対応が遅すぎたのである。では、どうすれば良かったか。筆者は、明治のひそみに倣う点があると考える。

 明治政府はその初期、幕末の徳川幕府以上に財政が危なかった。戊辰戦争で官軍が時々止まったのは、カネが続かなかったからである。豪商を脅かして献金をさせるにも限界があり、明治政府は予算確保のためにも、国の仕組みを大きく変える必要があった。

 そこで断行されたのが廃藩置県である。各藩による分権統治から中央集権にした。このおかげで全国一律の税制も可能になった。税収を上げるためには経済を良くしなければならない。ならば殖産興業である。こうして全国から叡智を集めての政治や軍事、産業振興が可能になった。

 明治の指導者は、薩長いずれも薩英戦争や下関戦争で欧米列強と直接対峙している。欧米の恐ろしさは骨身にしみていた。

 日本を列強の植民地にしないためには、迂遠でも鹿鳴館のようなご機嫌取りで不平等条約の解消をやり、辞を低くして外国人から技術を学び、国内で産業を興し、陸海軍を整備しなければならないと腹をくくる。

 やがて1902(明治35)年には、最新鋭の戦艦三笠をイギリスから購入できるだけの財政基盤を整えた。戊辰戦争から34年が経っていた。長期的視野に立たなければ、かかる国づくりは不可能である。

 幕末の外交は、長期的視野に立った制度変革の必要性を、現代の私たちに突きつけている。