民主主義ではプロセス、決定過程がとても重要です。それを踏み外したら、限りなく独裁に近づいていきます。これは私の確信です。だから不信任案には賛成しましたが、離党はしませんでした。それが私にとっての筋の通し方でした。

 もちろん、自民党内閣の不信任に賛成したわけですから、当然ペナルティーを科され、その後の衆院選(1993年7月18日)では公認が得られず、無所属で出馬しました。結果としては再びトップ当選をさせていただきました。

 その選挙では、自民党は比較第一党であったにもかかわらず、小沢一郎さんに野党をまとめられ(細川非自民連立政権の成立で)下野の憂き目に遭いました。

 細川護煕政権の成立(編集部注/1993年8月)は私にとって大きな試練でした。不信任案に賛成しながら自民党に残って、野党・自民党の中でやっていく。野党側からもサンドイッチにして選挙制度改革を進めようという腹でしたが、なかなかそうは問屋が卸さなかった。

自民党の改革派議員100人の姿は
本会議の採決の場にはなかった

 ユートピア(編集部注/「ユートピア政治研究会」の略。1988年9月結成。「どうすれば汚職のない政治が実現できるか」をテーマにした、1986年総選挙での初当選組による政策勉強会。鳩山由紀夫、渡海紀三朗など総勢10人)の仲間たちはほとんどが「新党さきがけ」を結成、政権与党入りしました。

 細川政権の最大の課題は政治改革の実現、すなわち選挙制度改革でありましたから、彼らからすると、自らの意思と与党全体の方向性が一致していたわけですが、自民党に残った私からすると、まずは、自民党を選挙制度改革賛成の方向にまとめなければならなかった。まだまだ自民党内には中選挙区の現状維持派が多数残っていました。その中でどう自民党案をまとめていくか。また、それがまとまったとしても、与党との折衝の中でどう妥協し成案としていくか、という問題がありました。

 1993年秋の臨時国会だったと思います。連立与党の衆議院選挙制度改革案は、当初の小選挙区250、比例代表(全国区)250、計500議席を、小選挙区274、比例代表(全国区)226と自民党側に譲歩したものの受け容れられず、審議は難航していました。