自民党最大派閥・経世会が分裂し
小沢と羽田は離党を選んだ

 宮澤喜一政権では佐川急便事件を契機に、最大派閥であった経世会が小沢一郎先生、羽田孜先生のグループと、梶山静六先生、小渕恵三先生のグループに真っ二つに割れます(編集部注/1992年10月、経世会=竹下派の会長だった金丸信は、東京佐川急便から5億円の献金を受けていたことで辞任に追い込まれ、後継を巡って内部抗争が起きた)。そこに選挙制度改革が絡み、小沢・羽田グループが選挙制度改革の断行を求め、政権を揺さぶり、ついに野党が出した内閣不信任案に賛成し、不信任案可決、衆院解散・総選挙という大政局になります。

 いよいよ明日が宮澤内閣の不信任の採決(1993年6月18日)だという日、宮澤政権の農水政務次官を務めていた私は小沢さんサイドから呼び出しを受けました。夜の何時だったか、赤坂プリンス旧館のとある部屋に来いと言われて行きました。

 小沢一郎、平野貞夫の両氏がいました。「石破君。よくここまで頑張ってくれた。僕たちは明日不信任案に賛成して離党する。君も一緒にやろう」と。へー?そんなつもりでやってきたんじゃないのに、と思いました。「自民党内で政治改革をやってきたので、離党は夢にも考えていません、不信任には賛成しますが、離党は致しません」と申し上げました。

 小沢さんは不機嫌そうな様子でした。

与党の一員にとどまりつつ
石破は内閣不信任案に賛成票

 私は宮澤内閣不信任決議に、与党の一員でありながら賛成票を投じる、という行動に出ました。選挙制度をめぐる党内手続に納得いかないことがあったからです。

 自民党の党議決定は、小選挙区比例代表並立制だったはずなのに、総務会でいきなり単純小選挙区にひっくり返されました。そこには単純小選挙区にすれば野党がのむわけがなく成立はしない、という狙いがあったのでしょうが、もし、単純小選挙区制度に変えるのであれば、総務会より1ランク上の両院議員総会ではかるべきだったはずです。我々若手議員の会は、両院議員総会を開会すべきだとの署名を所属議員の過半数分集め、両院議員総会で決まったなら我々も従います、と主張したが、それは聞き入れられませんでした。