
「誤解を恐れずに言えば」「自分ごと」……よく考えると違和感のある表現が、あなたの周りにもあふれかえっていないだろうか。断言を避けるようなこれらの言葉には、できることなら「責任回避」したいという現代人の意識が垣間見えるという。作家の下重暁子が、いまどきの日本語表現に潜む危うさを鋭く指摘する。※本稿は、下重暁子『怖い日本語』(ワニブックス【PLUS】新書)の一部を抜粋・編集したものです。
主語が消えれば責任感も消える?
カタチだけの謝罪は心に響かない
「もしこれによってご不快な思いをされた方がいたとしたらお詫びしたい」
本当にこのセリフは許せない。
とりあえず「謝罪」をしているように見えていながら、まったく謝罪になっていないからです。もしあなたがこんな謝り方をされたらどう思いますか。尊大で不遜、傲慢で不愉快極まりない言葉です。
これで「謝罪した」という事実はつくったつもりなのでしょう。
「不快な思いをされた人がいたとしたら」とは、「不快な思いをする人がいるとは思っていなかったし、今も思っていない」ということで、しかも「でも私は思いやりのある人間なので意図していなかった結果についても謝ってあげますよ」と、偉そうに付け加えているのです。
「あなたよりもずっと地位も高く、権威あるこの私があえて謝罪しているのだからありがたく思いなさい」と言っているに等しいし、実際そう思っているのだと思います。
不快で失礼な言い方だと言ったところで、こういう発言をする人は、なぜ失礼で不快と感じられるのかもわからないと思いますよ。
心に届かない言葉の多くには「主語」がありません。あるとしたら、「我が国は」だったり「政府は」だったり、企業なら「弊社」で、「社長」ですらない。
日常的にも「そんなことはみんなが知っている」「みんながそうしているから」という言い方がよくあります。子どもが「みんな持ってるもん!」なんて言って、何かはやりの文房具を親にねだったりするのと同じことです。
まともな大人なら「みんながやってるから」などという小学生のような言い訳をしてはならないと思います。
ひとりの社員が書いていたとしても、主語を「弊社」としたとたんに、個人の意志、感情、気持ちはすべて消え失せてしまいます。もちろん責任感もなくなります。
ほとんどの文章は、最初誰が書こうがそのままオープンになることはありません。ヒラ社員が書き、係長、課長、部長に回されてハンコが押され、場合によってはさらに弁護士がチェックしたりする。
それが本来顧客に向けて伝えるべき言葉であっても、誰も顧客のことなど考えておらず、「とにかく社内の稟議(りんぎ)を通す」ことが文章の目的そのものになってしまうのです。