世間で多用される言葉に滲む
責任回避の意識
「誤解を恐れずに言えば」
もよく聞きますが、そのたびにカチンと来る言葉です。
「私は勇気を出して、正しいことをあえて言いますよ」というようなつもりで使っているのかもしれませんが、まったく意味不明のことがほとんどです。
「誤解を恐れずに言えば」は、どうも「あえて言いにくいことを言う」という場合の単なる枕詞がわりに使われることが多くなっているようです。誤解されたくないなら、誤解されないような言葉で言えばいいし、それができないのならば言うのをやめればよろしい。
「私の意見に反感を覚える人がいても、それはあなたが私の真意をなにか誤解しているからなので、批判しないでね」という言い訳をするために使っている人もいるとすれば、結局これも「責任回避」が目的なのだと思います。「誤解する人は理解力がなくてアタマが悪い」と言っているようにも聞こえます。
「個」がない、「責任をとりたくない」という意識は、近ごろさらに一般にも広がっているような気がしてなりません。
その一端が、テレビを通して聞くことが非常に増えてきている「~かな」という言い方です。
たとえばスポーツ選手が「勝利できた理由」を問われて、
「練習方法を見直したことも結果につながったのかなと。このまま頑張っていけたらいいのかな、と思います」
なぜ、こんなに「かな」が多いのだろうと不思議です。
気にしだすときりがなくなるので、なるべく聞き流すようにしていますが、街頭インタビューで一般の人が話しているのを聞いていても、この「かな」のオンパレードです。
「こんどの連休は身近な場所で楽しめたのかなと思います」
「アウトレットで買い物ができてよかったのかな、と思います」
「天気もよかったのかな、と」
って、どれだけ「かな」が多いの!
いずれも単に自分の行動、感想を話しているだけなのですから、本来「かな」はまったくいらないはずです。「自分でも勝てた理由は実はよくわからない」とか、「本当に楽しめたのかどうか実は疑問」ということではないはずです。
しかし、なぜか「これが結果につながったのだと思います。このまま頑張ります」「連休は身近な場所で楽しみました」ではない。本人はたいして意識していないのでしょうが、「言い切る」ことを恐れているように感じてしまいます。
「断言」しなければ、他の人から何か言われても「それは私の思い違いかもしれません」という逃げ道を残すために「かな」をつけておこう、という印象がとても強くなります。