「私たちは、動物を殺して食べていることを忘れてはいけない」ということを、本気で伝えたいのなら、別の伝え方、別の言葉があるでしょう。別の番組をつくったほうがいいかもしれない。
けれど、あまりにも安易に、何かと言えば「命をいただく」と言っておけばいいというわけではありません。
自然をテーマにしたドキュメンタリーでも、日本のテレビ局が制作したもののナレーションを聞いていると、何かと言えば「親子の愛情」といったものが多く、編集もこうしたものが軸になっているものばかり目立ちます。
動物の狩りの画面も「母親は必死で子どものために食べ物を探します」だの、殺された動物がいれば「これも命をつなぐために大切な自然の営みです」やら「次の世代にバトンをわたす」だのという、いかにも「人間目線」のきれいごとが並ぶ。
「命をいただく」という言葉に限らず、一度使い出すと、あっちでもこっちでも同じ言葉を使う、ということが多すぎます。
真意を伝えたいのなら、言葉をその都度きちんと選んでほしい。とくにメディアに関わる人ならば、それはもっとも大切なことのひとつだと思います。
免罪符として使い回される
「やさしい」という言葉
「やさしい」は、本来とてもいい日本語です。
けれど近年は「やさしい」があふれすぎではないかと思います。
どの業界もバカのひとつ覚えのように「地球にやさしい」とか「自然にやさしい」ばかり言わないでほしい。
今やどんな企業も、高度成長期にはまったく配慮していなかった「環境への負荷」を減らすことを考えざるを得なくなってきました。それはいいことだけれど、とにかくこの言葉を使っておけばいいだろう、という姿勢のほうが目立つように思います。
「自然にやさしい工事」
「環境にやさしい車」
「地球にやさしい暮らし」
と、広告代理店が片手間で考えたような「やさしい」があふれ、さらに健康に関する言い回しにも波及して、「お肌にやさしい」「目にやさしい」「お腹にやさしい」「膝にやさしい」「腰にやさしい」と「やさしい」のオンパレード。さらに「家計にやさしい」「お財布にやさしい」、食レポも「やさしいお味です」になってしまう。