では「老衰」は病名なのか、たんなる「状況」を示す「死因」なのか、もうちょっとしつこく調べてみました。

 厚労省の2019年版死亡診断書記入マニュアルというのがあり、そこには、「死因としての『老衰』は、高齢者で他に記載すべき死亡の原因がない、いわゆる自然死の場合のみ用いる」「ただし、老衰から他の病態を併発して死亡した場合は医学的因果関係に従って記入することになる」ということなのだとか。

 それを医師がどう解釈するかは、だいぶ判断がわかれるそうで、「老衰によって誤嚥性肺炎が起きた」場合も「老衰」とだけ書く場合があり、「誤嚥性肺炎」と書く医師もいるといいます。「人の死には老衰死というものはないはずで、科学的には必ず死因になる病名がつけられる」と考える医師もいるそうです。

 結局のところ、死亡診断書の「死因」は、医師の考え方により、遺族との相談でどう書くかを決めることもあるということでした。

 それなら私は「私の遺志」を尊重してもらいたいと思います。どんな死に方をしても、正確にちゃんと書いてもらいたい。中途半端な「老衰」なんかまっぴらごめんです。

 いつ急に死ぬかわからないので、せいぜいあちこちに「絶対老衰と書くな」と、今のうちに言っておくことにします。私は老衰では死にません!

「命をいただく」という表現は
人間目線のきれいごとでしかない

「命をいただく」

 という言葉。これも、どうも気になる言い回しで、しかもずいぶん増えてきているように思います。

 漁や狩猟の様子などを紹介したあとでそれを食べる、という話になったとき、まるで言い訳のように、この言葉はよく使われます。

 動物を殺しているけれど、ありがたくいただいております、けっして無駄にはいたしません、感謝しております、というような意味で使うのでしょうが、わざわざそんな一言をつけ加えたところで意味はありません。

 本来、米だろうが肉だろうが、人間の食事になってしまった動植物や、育てた人に感謝するということは、子どものころから、なんとなく親や先生に言われたように、私たちの心のなかに自然に入っているべきものです。

「お百姓さんが一所懸命育てたお米だから一粒残さずちゃんと食べなさい」と言われたことがある人は多いはずです。

 その代わりの言葉が「命をいただく」なのでしょうか。でも、私はそうとは思えません。子どもたちに動物への感謝を教えたいというより、「動物を殺している映像」を見せた言い訳のように感じます。