最期は家族を患者の側に…
夫を亡くした夫人の訴え

 講演で語られたもう1つの例は、講演のつい2カ月前のことだという。聖路加病院で夫を亡くした50歳の女性が、日野原先生を学長室に訪ねて来て訴えたのだ。亡くなった患者の担当医は外科だったが、内科医の日野原先生も長期にわたってかかわっておられた。

「先生、主人が外科の病棟で、一昨日亡くなりました。私は主人がいよいよ最後の息を引き取るときには、前から約束していたことを実行しようと、覚悟しておりました。それは連れ合いの冷たくなる手を握って、あの人をあの世に届けてあげようということでした。胃がんの全身転移というのに、どうして大勢の医師や看護師さんが、主人が急変したので処置をしますからといって、私を押し出すのでしょう。

 30分後に呼ばれたときには、主人は冷たくなって横たわっておりました。先生、これからがん末期の患者さんには、荒々しい蘇生術などしないで、家族を患者の傍に置いてあげてください」

 この夫人の訴えに対し、日野原先生は、講演で、

「私はこれに対して、全く返事をする言葉を知らなかったのであります」

 と短く言って、しばらく沈黙した。

 これら2つのエピソードのうち、第一例は戦前のこと、第2例はがんの終末期における緩和ケアの取り組みがいまだ未成熟だった1980年のことだ。それでも、人間の死と向き合う医のあり方について普遍的な問題を提起するエピソードであることは確かだ。

歴史的な人物の言葉にみる
医療現場に必要なこと

 先生が医療におけるケアの重要性や「生と死」の問題について語る時には、歴史的に著名な人物のすばらしい言葉を引用することが多く、蓄積している言葉の多さにはしばしば驚かされる。その中の2つを記しておきたい。

 医療における看護の重要性と看護師の地位の向上を社会的にしっかりと認識してもらおうと、国が5月12日を「看護の日」と制定したのは、1990年のこと。その年の春、「看護の日の制定を願う会」(発起人10名、私もその1人)が、ノンフィクション作家で自らがんと闘っていた中島みちさんの呼びかけで立ち上げられ、厚生省(当時)で担当課長らと会談をした時、「看護の日」をいつにするかで、案を出し合った。

 全員が一致したのは、やはりナイチンゲールの誕生日である5月12日だった。