看取られる男性の手写真はイメージです Photo:PIXTA

納得できる“死の迎え方”を見つけることは、医療・社会・個人において、ひとつの大きな課題である。聖路加国際病院の名誉院長を務めた日野原重明氏は、長年にわたり、こうした「生と死」の問題と向き合い続けてきた。人生の最後をどう創っていけばよいのか……日野原氏の生き方から、著者が学んだものとは。※本稿は、柳田邦男『「死後生」を生きる 人生は死では終わらない』(文藝春秋)の一部を抜粋・編集したものです。

少女の魂の叫びと
日野原先生の悔い

 日野原先生(編集部注:日野原重明。日本の医師、医学者。聖路加国際病院名誉院長)は、はじめてお会いしてからずっと、25歳も年下の私をまるで目をかけた学生を育てるかのように、いつも気にかけてくださった。

 はじめてお会いしたのは、1980年11月のことだ。緩和ケアという用語も取り組みも、一般にはまだ知られていなかった時代だった。発足して間もない日本死の臨床研究会(編集部注:「死の臨床において患者や家族に対する真の援助の道を全人的立場より研究していくこと」を目的として1977年に設立された会)が一般市民向けの啓発講演会を東京で開いた時、日野原先生は「延命の医学から生命を与えるケアへ」と題する講演をされた。

 その中で先生は、現代の医療が延命治療に偏り、人生の中で最も重要な穏やかな旅立ちとそのためのケアへの取り組みが配慮されなくなっている当時の現実を象徴的に示すものとして、自らの苦い体験を2例、語られた。

 一例は、京都大学医学部を卒業して医師となって間もなく、はじめて経験した16歳の女工をしていた少女の死だった。結核性腹膜炎が進行して死期が近いことを自覚した彼女は、若い日野原医師に言った。

「お母さんには心配をかけ続けで申しわけないと思っているのです。お母さんはお父さんがいないので、お仕事が忙しくて病院に来られません。どうか私が申しわけないと思っていたことを、お母さんに伝えてください」と。

 しかし日野原医師は、少女に死への不安を抱かせまいとする思いが先走って、少女の魂の叫びに耳を傾けようとせずに、「あなたは元気になるのです。そんな気弱になってはいけません」と励ますことしかしなかった。

「なぜあの時、お母さんにしっかり伝えてあげますから安心しなさいと、少女の魂を癒やす言葉をかけてあげられなかったのか」

 講演のなかで懺悔するかのような潤んだ声で切々と語る先生の真摯さに、私は激しく心を揺さぶられた。この時、先生は聖路加看護大学(現聖路加国際大学)学長で69歳。私は44歳だった。