その時、発起人の1人になっていた日野原先生がこれからの看護師に目指してほしい感性の向上について発言され、ナイチンゲールの次のような言葉を紹介された。
「看護師たる者は、いまだ経験していないことであっても、それを感知する資質を持たなければならない」
人生経験も少なく、重い病気になった経験のない看護師が、病気で様々な苦悩を抱えている患者のケアにかかわるのだから、右の言葉は極めて重要なポイントを突いていると、出席者たちはみな頷き合った。
もう1つは、ある雑誌のいのちをめぐる先生と私との対談の中で引用された哲学者ソクラテスの次の言葉だ。
「医師もまた言葉を使う人である」
医学が高度に発達した現代医療の現場では、医師による説明が専門的なことや技術的なことに偏りがちだ。病気が進行したり、残されたいのちの時間があまりない状態になった時、心の通う会話がなされないと、患者の心は癒やされない。しかし、医師の中には、専門的な技術は優れていても、そういうコミュニケーションがうまくできない人が少なくない。
医療技術の未発達だった古代ギリシャの哲人の言葉は、現代において新たな重みを持つようになったと言える。先生は、そういう意味をこめて、ソクラテスの言葉を引用されたのだった。
人生の最終章を
自分で納得できる形に
2017年7月、上智大学グリーフケア研究所が毎年春と秋に開いている連続公開講座「『悲嘆』について学ぶ」の春期の最終回の講師は、日野原先生になっていた。ところが、特任所長(当時)の髙木慶子先生から私に電話があり、日野原先生のご体調がよくないとのことで、講義の代役を依頼された。私はその役を引き受けたが、先生の病状が急変するとは思っていなかった。
7月18日、先生がご逝去された後に行われた聖路加国際病院の福井次矢院長の記者会見での説明によると、21歳の学生時代に患った肺結核の後遺症に加え、高齢化に伴う心臓や消化器系、筋骨系などの機能低下が進んでいたという。
この春から自宅で療養されていたが、経管栄養は断り、水分や栄養分の補給は口から入れておられた。福井先生の推測では、「人工的に管を入れて栄養分を補うことは、人間として自然な人生の終え方ではないと考えておられたのだろう」とのこと。日野原先生のかねてからの死生観に添ったものだ。