「やっぱり日本の記者だな。ロシア人の性格も政府のやり口もわかっていない。国外での殺害を命じる権限は大統領にだけある。2006年夏に改正された法律にも明記されている。プーチンがこの暗殺計画を知らされていなかったら法律違反だ。実行者は処罰対象になる」
「妙なところで法治国家なんですね」
「その通り。法律違反は罰せられる。ただし、まともとは思えない法律があるうえ、解釈にも奇妙な点が多いんだ」
ブコウスキーは笑みを浮かべた。
ロシア指導者の支持率が
100%近い「からくり」
ロシア国内の世論調査では、プーチンへの支持率は高い。欧米や日本の指導者に比べ、はるかに人気がある。国外での暗殺を指示するような指導者がなぜ、支持されるのか。
「ロシア人の本心は世論調査では測れない。スターリン(※7)は言うに及ばず、ブレジネフ(※8)も100%近い国民に支持されていた。本当かね、と思う。世論調査は『大衆』や『市民社会』が存在する国でしか意味を持たない。ロシアには大衆も世論もない。指導者の考えに背くと厳しい処罰を受ける。みんなそう考えている。自由に思考できない。恐ろしい時代が続いたからね。勇気ある人は圧倒的に少数だ。世論調査会社が『プーチンについてどう思うか』と聞けば、人はまず、どんな答えが求められているのかを見きわめようとする。長年、そうすることに慣らされている。それを責めることはできないよ」
(※7)…編集部注/ヨシフ・スターリン。1924年~1953年までソ連共産党最高指導者を務める
(※8)…編集部注/レオニード・ブレジネフ。1964年~1982年までソ連共産党最高指導者を務める
ブコウスキーが試写会後のシンポジウム(※9)で発言したように、ソ連崩壊後の一時期、ロシアは民主化の道を歩み出した。ロシア現代史の観点ではリトビネンコ暗殺をどう位置づければいいのだろうか。
(※9)…編集部注/著者とマリーナが参加した「ロシアの民主化」をテーマにしたシンポジウム
「KGB支配が完成した証と言えるだろう」
ブコウスキーによると、エリツィン(※10)による民主化の最大の敵はKGBだった。1993年ごろから経済が行き詰まるとともに、国会では旧勢力が回復基調にあった。
(※10)…ロシア連邦初代大統領。1991年~1999年在任
「旧KGBの幹部が政府の役職に復帰し始めたのは96年ごろだ。そしてプーチンが台頭し、2000年の選挙で大統領になる。旧KGBがトップに就くと、彼らはもはや隠れる必要がなくなった。堂々と政府のあらゆる役職に就いた。当時はまだ、KGB支配を批判し、それに挑戦する者が大勢いた。支配を完成させるためにはそうした者たちを排除し、敵対すればどうなるかを国民に示す必要があった。サーシャの暗殺もその1つだ」
この政治犯の解説に「なるほど」と納得する一方、疑問も浮かんだ。ロシア政府は暗殺を否定している。「敵対者を排除する」と示す必要があるのなら、暗殺の事実を認める方が得策ではないのか。その点を聞くと、ブコウスキーは「ロシア人と日本人を同じように考えないでくれ」と言った。