不老長寿テクノロジーには、より原理的な批判もある。たとえば、バイオテクノロジーによる能力増強の是非を論じた米大統領生命倫理評議会の報告書『治療を超えて』は、その検討項目の1つに不老長寿テクノロジーをあげている。
そして、その根本的な問題点として、人生の目的が見失われることや人生にたいする真剣さが失われるということを指摘している。寿命が長くなれば、たいていのことは人生のなかで二度、三度と繰り返されることになる。そうなれば、その時々の体験をかけがえのないものと捉えることがなくなってしまうのではないか、そして、「またつぎがあるからまあいいや」と考えるようになって、人生にたいする真剣さが失われてしまうのではないか、というのだ。
イギリスの哲学者バーナード・ウィリアムズも、同様の理由で不死は決してよいものではないと論じている。われわれが文字通り不死になれば、ほとんどすべてのことは過去に経験したことの繰り返しとなる。そうだとすれば、不死はきわめて退屈なものにちがいないというのだ(注3)。
これはなかなか興味深い指摘だ。たしかに、幸福は人生の長さという量だけで単純に決まるものではないだろう。テクノロジーは、われわれの可能性をさまざまな形で拡大する。しかし、それがわれわれの幸福に直結するかどうかは、それほど単純な話ではないのだ。
100歳を超えた先の健康的な生き方は
まだ誰も体験していない
他方で、このような批判にたいしては、不老長寿テクノロジーに肯定的な論者からの反論もある。たとえば、ソニア・アリソンはつぎのように論じている。(平均寿命が40歳程度だった)150年前の人に、いまより長生きしたいかたずねても、多くの人はノーと答えるだろう。
それは、当時の生活がそれほど豊かなものではなかったため、同じ生活がさらに数十年続いても、それほど魅力的ではないと考えただろうからだ。