「秀吉の政策は独創じゃなかった」→だからこそ見えてくる、リーダーに必要な“本当の学び”
仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつマネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

信長と秀吉の“ビジョンの差”に学ぶ「組織を動かす力」Photo: Adobe Stock

豊臣秀吉(1537~98年)は、戦国時代を終わらせた天下人。貧しい農民の出身ながら織田信長に見出されて出世を遂げる。織田家臣団の重臣となり、中国地方の大大名・毛利氏を攻めたが、本能寺の変で明智光秀が信長を殺害したため、その仇討ちとして明智を滅ぼす。その後、織田家でライバルであった柴田勝家も滅ぼし、信長の後継者としての立場を確立する。信長時代に征服できなかった四国・九州・関東・奥州を平定して全国を統一。その間、各地域の農業生産力を確認する検地や、武士と農民の分離を徹底する刀狩を行い、江戸時代に続く封建社会の基礎を固める。明(中国)までの征服を目指して朝鮮出兵をするも、朝鮮の頑強な抵抗や明の朝鮮支援もあり、失敗。後継者問題でも実子・豊臣秀頼の誕生後は、いったん後継者とした甥・豊臣秀次を粛清するなど、晩年は内外ともに混乱が続き、秀吉死後の不安定要因をつくる。

本能寺の変後、天下統一へ

本能寺の変で織田信長が死去した後明智光秀や柴田勝家といったライバルを倒した豊臣秀吉が信長を継承し、天下統一を進めます。

秀吉は大名を臣下として従わせた後強制的に領地を移転させました。徳川家康は東海地方から関東地方へ移転する命令に従いましたが、信長の息子である織田信雄(1558~1630年)は移転の命令に従わなかったため、領地を没収されています。

大名の強制移転を可能にしたことで、秀吉は大名の生殺与奪権を握ることになります。大名を思うがままにできる力を見せつけることで、大名が秀吉の意向に逆らえなくしたのです。

太閤検地で全国の農地を可視化

さらには日本全土で行った「太閤検地」によって、農地の生産能力を確認する調査を徹底しました。これにより各地の生産能力が石高として可視化され、年貢をとりやすくなったのです。

太閤検地では、検地する役人に中央から食料を支給して、接待を禁じました。各地方の生産性を高めるとともに、地方分権から中央集権への移行を図ったのです。

刀狩と城割による秩序の確立

また、武士以外の農民から武器をとり上げる「刀狩り」を行い、治安の維持につなげました。それまでは武士と農民の区別が明確ではなかったのですが、武士は軍事に、農民は農業に専念することになります。

ほかにも、大名が居住する本城以外の支城の破却を命じる「城割(しろわり)」によって、軍事体制面でも中央集権化を進めました。

実は信長の構想を継承

こうした秀吉のとり組みは、じつはすべて信長が始めたことか、始めようとしていたことなのです。実際、太閤検地や刀狩り、城割は、信長が支配地で始めていたことです。

大名の強制移転も信長が考えていたものであり、本能寺の変で倒れていなければ、信長による大名の移転が活発に行われたことでしょう。いずれのとり組みも、秀吉の独創ではなかったのです。

信長の構想を全国に拡大した手腕

しかし、信長が始めたことを全国に広めて、徹底したことは、秀吉の大きな功績です。秀吉が実現できたのは、人材活用のうまさが大きかったです。

秀吉は、加藤清正や福島正則といった戦いくさ上手の武断派は全国統一戦で活かすとともに、石田三成といった行政能力が高い実務派を活かすことで、太閤検地や刀狩りといった全国横断的な施策を展開。武力による天下統一と、統一後の社会基盤の整備を同時に進めたのです。

ビジョンなき天下統一の限界

残念なのは、天下統一の先に「こういう社会を実現したい」というビジョンが秀吉に欠けていたことです。

もし秀吉に「戦乱の世をしずめ、平穏な世の中を実現したい」という目標があったならば、明(中国)征服を目指して朝鮮に侵攻した朝鮮出兵「文禄・慶長の役」はなかったかもしれません。

また、自分の子への承継にこだわることなく、一度は関白を譲った甥・秀次への粛清もなかったかもしれません。このような目指すべきビジョンがないゆえの振る舞いが、秀吉死後の豊臣政権の崩壊につながったように感じます。

※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。