常識に流されず突き進む――戦国時代に“自分を貫いた”信長の挑戦から学ぶ
「仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつ、マネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

織田信長(1534~82年)は、尾張(愛知西部)に生まれた戦国大名。若いころは奇抜なスタイルにより「うつけ(ばか)者」と周囲から揶揄された。しかし、合理的な考え方の持ち主で、鉄砲など最新兵器を導入したり実力重視で家臣を抜てきしたりと、従来の常識にとらわれない当時としては大胆なとり組みをした。その結果、尾張の小大名から尾張を統一した後、隣国の大大名・今川義元(1519~60年)の侵攻に対して桶狭間の戦い(1560年)で討ち果たす。さらに美濃(岐阜)を支配していた斎藤氏を滅亡させて領土を拡大した後、室町幕府の将軍・足利義昭(1537~97年)を奉じて京都に上る。その後、対立した義昭を追放したうえで勢力を拡大していき、東国の強豪であった武田氏を滅亡させ、西国の雄・毛利氏も攻めて天下統一に王手をかけるが、本能寺の変(1582年)で重臣・明智光秀(1528~82年)のクーデターにあい自害する。
天下統一を目指していたのは一部の大名だけ
戦国時代といえば、多くの武将が天下統一を目指していたと考えられがちですが、多くの戦国大名は天下統一など考えていませんでした。
自分の領土を守り、周辺に領土を拡大するくらいのことは考えていたかもしれませんが、それさえも制約があったのです。
東北では「親戚関係」が戦を止める
たとえば、東北地方の南部は親戚関係の大名が多く、領土を拡大するために戦おうとしても、親戚間の調停が入ることがありました。
仙台藩の藩祖・伊達政宗(1567~1636年)と山形の名将・最上義光(1546~1614年)は、甥と伯父の関係ですが、2人が対立したときは、義光の妹で政宗の母である義姫(1548~1623年)が仲介に入りました。
多くの戦国大名は「現状維持」志向だった
戦国大名の多くは、基本的に現状維持の志向が強く、どんどん領土を広げて天下統一を果たそうという野心的な目標を立てることはありませんでした。
そうしたなかで、織田信長は天下統一を目指したのです。
世界は「大航海時代」――信長の時代背景
信長が活躍していたころ、世界は「大航海時代」の真っただ中でした。スペインやポルトガルといった国々が、日本に訪れるようになっていたのです。
そうした国々との交易により、鉄砲や弾薬が入手できるようになり、敵に壊滅的なダメージを与えられるようになりました。
天下統一と「貿易立国」の戦略
その一方で、莫大な軍事費や海外と貿易ルートを確保する必要もありました。
膨大な軍事費を得るためには領土を広げる。さらには全国統一によって富を独占するとともに、海外との交易を活発にして富を増やしていく「貿易立国」を信長は目指していたともいえます。
信長は日本を統一した後、海外進出を視野に入れていたともされます。
最新兵器と戦略的拡張
そうした時代の変化をとらえつつ、信長は鉄砲や弾薬といった最新兵器を導入し、軍事力を増強して敵対勢力を打ち負かし、領土を拡大していきます。
最近の研究では、信長軍が使用した弾薬が海外から多量に輸入されていたことが、武田軍を始めとする強敵を打ち負かした要因としてあげられています。
「あと一歩」で潰えた夢
そうやって富を得た信長は、さらなる軍事力の強化と領土の拡張を繰り返していきます。
結果的には、本能寺の変で謀反を起こした明智光秀に寝込みを襲われ、包囲されたことを知ると、寺に火を放って自害したため、天下統一は果たせませんでしたが、あともう一歩のところまでは行きました。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。