「メタ正義感覚」は
「妥協策」ではない
「メタ正義感覚」という用語については、私はずいぶん前から本やウェブ記事などで発信していて、読者の方が日常の中で使ってくださっている例も増えてきました。
しかし、時々読者の方から「倉本さん、こういうのがメタ正義感覚ですよね?」というように質問される例のうち、いくつかの例はただ評論家的に俯瞰(ふかん)して考えているだけだったり、単に「足して2で割った妥協案」的なものであったりという誤解があるように思います。
こういうものは、「メタ正義感覚」とは呼べません。
考えてみてほしいのですが、「足して2で割る」時には、実はどちらの正義も尊重されていない場合が多いですよね。自分が持っている正義も、相手が持っている正義も、結局妥協させられて、「現実はこうなんだから仕方ないじゃん」という押しつけの中に埋没させられてしまいます。
メタ正義的解決とは、もっとクリエイティブなものです。
先ほどの家族旅行の例を考えるとわかりやすいかと思いますが、例えば、相手は「沖縄に行ってゆっくりリラックスしたい」と思っているのに、その本質的な理由に踏み込まずに意見の外面だけを受け取って、「じゃあ沖縄に行くって案は合わせるからできるだけアクティブに動き回ろう」と押し込んでしまうと、中途半端になってそもそもどちらも望んでいないプランになってしまいますよね。

倉本圭造 著
この例の場合、あなたが求める「アクティブさ」と相手が求める「リラックス」を両立させるのは少し難しいですが、例えば遠出をしないで近場にして移動時間を短縮することで、「アクティブさ」と「リラックス」をそれぞれ思う存分楽しめる選択肢が見えてくるかもしれません。
そして、どんどん相手の意見を深掘りしていって、「相手が許容できるタイプのアクティブさはどの程度なのか」「相手が求めるリラックスとはどういう種類のものか」を細部まで理解できれば、例えば山奥まで車で行って周囲を軽くトレッキングし、その後秘湯の温泉宿で思う存分ゆっくりするプランなどにたどり着けるかもしれません。
このように、「メタ正義感覚」で意見を出し合っていると、最初のアイデアとは似ても似つかないようなプランに落ち着くことが珍しくありません。