約300年の歴史で初めての
「成長の転機」とは?
では、中川流の工芸の定義は何か。一言で言えば、「手で作られた生活の道具」のことだという。
「そもそも工芸というのは、生活の中で使う道具を自分たちで、それも手で作っていたことが起源だと思うんです。例えば石器時代に人間が作っていた道具だって、工芸品と言えるはず。ところが高度経済成長期やバブル景気の時に、高値な物でも売れるからという理由で加飾が過剰になってしまって、日常生活から離れた美術工芸がメインになってしまった。でも今は、そういうものはもう売れない時代です」
過剰を嫌い、生活に寄り添う。そこには、前述した茶道や華道にも通じる日本流の本質的な価値観「本(もと)」が脈々と流れている。そしてそれは「伝統」であり、かつ「革新」の礎でもあるのだ。
2007年、中川氏は同社のビジョン(筆者のいう「パーパス」)を設定した。約300年にわたる同社の歴史の中で初めてのことである。
日本の工芸品出荷量は過去40年間で、5分の1にまで落ち込んでいる。このままでは日本の伝統的な素材や技術がどんどんなくなり、自社も商品をつくれなくなってしまうという危機感があった。
その一方で「ブランディング」を基軸とする自社の経営手法が、他の工芸メーカーでも通じるとも考えたという。そのような思いが重なって、2007年に「日本の工芸を元気にする!」というビジョンに結実したのである。
中川氏は、「元気」な状態を「工芸メーカーが経済的に自立し、かつ、ものづくりの誇りを取り戻すこと」と定義した。そしてそのために自社がやれることは何か、と考えた。その結果、工芸メーカーの再生コンサルティングや教育を手掛けることにしたという。
その際に採用したアプローチが、「産地の一番星をつくる」というものだ。産地の中の1社を徹底的に磨いて、それが圧倒的な成功事例になれば、2番手や3番手は追随してくるはずと考えたからだ。
その狙いは見事にあたり、いくつもの再生事例が生まれていった。第一号案件は、長崎県の波佐見焼。もともと波佐見は佐賀県の有田焼の下請け産地だったが、波佐見ブランドとしての知名度はなかった。そこで有限会社マルヒロを一番星として支援。新ブランド「HASAMI」を中川政七商店主催のイベントに展示したところ、一気にブレーク。その後、マルヒロが同地区の他のメーカーを手伝ったため、波佐見焼は有田焼と肩を並べるほど、世の中に認知されるようになった。
その後、中川政七商店は工芸の再評価と産地への集客を狙った工芸の祭典「大日本市博覧会」を手掛けるようになる。来場者にその土地の魅力を再発見してもらうことを目的に、地元の工芸品を売り出したり、各界・各地で活躍するゲストのトークイベントやワークショップを行うというもの。