アイドルは、何を「選択と集中」しているのか。それは「キャラ」である。ある1つのキャラを演じる存在として、それを演じきらなければならない。本来、人には複数の側面がある。それは、アイドルも同じだ。

 しかし、アイドルの場合、その側面の中から、引きが強そうなもの、あるいはグループアイドルの場合は他のメンバーと「キャラかぶり」しないようなキャラを選択し、それを徹底的に強調する。「ニセコ化」と同じだ。元々の土地の強みを見つけ、その強みを増幅させていくように、アイドルもまた、その人物固有の「キャラ」を増幅させていく。

アイドルが作るフィクションは
テーマパークと同じである

 こうした「キャラ」の増幅が「選択と集中」であるならば、そこでも「静かな排除」は起きるはずである。実際、2020年代には、さまざまなアイドルグループが誕生するにつれて、アイドルが持つ「ニセコ化」の側面が、批判に晒される場面も増えてきた。

 先ほども指摘したように、アイドルとはフィクションである。そしてファンは、そのアイドルの「選択と集中」された一側面を消費している。アイドル側も、そうした消費を促すように、自らに明確な「キャラ付け」を進める。

ディズニーランド、ホス狂、ニセコ…愛と熱狂を生み出す「嘘のつくり方」『ニセコ化するニッポン』(谷頭和希、KADOKAWA)

 しかし、それは実人格とは遊離したフィクションだ。つまり、アイドルは、人間として持っているさまざまな性格を「排除」することによって、1つの「キャラ」を作ることによって成立する。そうなると、当然、アイドル側としては、その作られたキャラと、本当の自分との乖離に悩まされることになる。

 引退したアイドルが、「アイドルとしての自分」と「本当の自分」の乖離に悩まされていたことを告白するのは、珍しいことではない。

 ファンはファンとて、その「選択と集中」された姿に熱狂しているのであり、「推し」への熱が強まれば強まるほど、この乖離をもっと生み出してしまう。