佐々木が指摘するのは、こうしたホス狂の人たちは、ホストにお金を使うことでしかアイデンティティを確立する場所がないことだ。人よりも推しに貢ぐことで、自己のアイデンティティを確立しているのである。

 彼女たちにとっては、「選択と集中」が自己のアイデンティティ、つまり「らしさ」に直結している。しかし、その「選択と集中」が、彼女たちを追い詰めている。

「ニセコ化」は、何かを「静かに排除」する。ホス狂は、アイデンティティを確立するために「推しに貢ぐ」以外の様々な可能性を自ら排除してしまっているのかもしれない。

 その結果、人生のバランスを崩してしまっているわけだ。個々人の消費における「ニセコ化」の問題のわかりやすい例が、ここに表れている。

 ここで重要なのは、「推し活」全体に対して否定的になるべきではないことだ。「選択と集中によるテーマパーク化」は多くの幸せを人々にもたらすことも確かである。ホストを推すことによって精神的な充足感を得ている人もいるし、「推す」ことによって起こるメリットの方が大きいかもしれない。

 一方で、「選択と集中」には必ず「排除」が付きまとっていることも確かだ。つまり、それはどこかバランスを崩した状態でもある。だからこそ、常に、その生き方において、なにかを「排除」しているかもしれない可能性を考えておくことも必要なのではないか。

「推される側」である
アイドルのキャラ問題

「ニセコ化」は、「推し活をしている」人にだけ見られるわけではない。むしろ、そこで「推される側の人」もまた、強くこの「選択と集中」の渦中にある。顕著なのがアイドルだろう。

 主人公がアイドルの子どもとして生まれ変わり、芸能界のさまざまな局面を体験していく漫画『推しの子』は、テレビアニメにもなり大流行。実写映画も作られている。主人公の母親で、かつてのトップアイドル・星野アイは、アイドルという職業を指してこう言う。

「嘘はとびきりの愛なんだよ」

 ここには、アイドルという職業が、「フィクション」であり、ファンに対して見せるべき面のみを見せる職業だということが表れている。ファンが望む姿を徹底的に演じるのが「アイドル」なのである。その意味で、まさにアイドルとは、「選択と集中によるテーマパーク化」の時代を顕著に表す存在だといえる。