着いたその足で我々は、調査のサポートをしてくれる現地の博物館へ挨拶に行き、そのまま直接館長室に通された。そのときだった。件の先輩が館長に向かってアラビア語で挨拶し、その後も流暢(りゅうちょう)なアラビア語で会話を始めたのだ。これには正直驚いた。てっきり英語で話すものだと思い込んでいた私は、あっけにとられたのである。
なぜならそれは明らかに挨拶程度の会話というレベルではなく、それを超えていたからだ。館長の方も普通にアラビア語で会話しているように見えた。もちろん私にはチンプンカンプンであった。これは大変な場所にやって来たと感じたことを記憶している。さて何もできない自分はこれからどうしたものかと考えたことも。
「足手まといになりたくない」
必死で食らいつく中での「気づき」
翌朝から現場で発掘調査が始まった。現場でも宿舎でも24時間、常に緊張していた。調査隊の足手まといにならないようにできることを自ら探してやった。朝は早めに起き、現場に持参する機器や道具類を車に運び込み、現場ではとにかく積極的に動くことを心掛けた。
ときには現地のシリア人の作業員たちに交じり、墓から掘り出された重い土や砂を車のタイヤを再利用した籠に入れて何度も往復して運んだ。気温が40℃を超えるような真夏であったが、毎日必死だったことだけを思い出す。他の隊員と比べて発掘調査の経験が少ないとはいえ、そしてアラビア語も話せないとはいえ、足手まといにだけはなりたくなかった。
発掘調査を開始して3、4日経った頃、ようやく少し余裕が出てきたのか、周りの様子が気になり始めた。強い日差しを浴びながら地上で墓の平面図を作成するために2人組で平板測量する人たち、地下墓の底で立面図を取るためにトータルステーション(距離と角度を同時に測れる測量機器)を使用したり(写真1)、そのトータルステーションからの光を受けるターゲット(測定対象物の上に設置するミラーの付いた目標物)を持っている人たち、その傍で画板を抱えながらしゃがみ込んで、土器や人骨などの遺物実測をしている人たち、そしてそのなかで件の先輩だけが作業の合間に下を向いて野帳(測量野帳)に何かをペンで書き込んでいた。
