あのときは人の真似をするのが恥ずかしいとは思わなかった。今思い返せば、私は私なりに必死であったからだ。未熟な大学院生であったにもかかわらず、せっかくシリアにまで連れて来てもらったのだから、何としてでも調査隊の役に立たねばならない、そして自分のために何かを得て日本に帰らなければという思いで一杯だったからだ。
毎日毎日、数、色、簡単な挨拶と順番にアラビア語を1つ1つ覚えていった。そしてなるべく作業員たちに自分から積極的に話しかけるようにした。日本でも普段人と話すのが苦手な私には厄介なことではあったが……(56歳になった今でも人前で話すのは苦手だ)。
するとすぐに彼らは新入りの私の名前「おおしろ」を覚えてくれ、現場だけではなく、街中でも遠くから「オオシロ!」と手を振りながら声を掛けてくれるようになった。街の食堂で食事をしていても、博物館で展示物を見ていても、路上で誰かとチャイ(紅茶)を飲んでいても。たとえ文化や宗教が違っていても、年齢や職業が異なろうとも、コミュニケーションというものが人間関係の根幹にあるのだと今更ながら思い知らされた経験であった。
甘いチャイやタバコを片手に
シリア人作業員の輪の中へ
私がアラビア語を必死に覚えようとしていることがシリア人作業員たちに知れ渡ると、目に見えて向こうから話し掛けられることが増えてきた。ちょっとした休憩時間に彼らと一緒に甘い甘いチャイ(チャイ専用の小さなコップの半分くらいが砂糖の作業員もいた)を飲む回数も増えた。必要だと思えば、会話に入り込むために、普段は決して吸わないタバコも吸った。俗に言う「ヤニニケーション」というやつだ(イスラーム教が主流のアラブ世界には、新橋界隈に今も蔓延る「飲みニケーション」は存在しない)。
もちろん作業員たちのほとんどが日本語はおろか、英語ですら話すことができない。文字もあまり書けない(識字率が低いことが原因である。ただそれは彼らだけのせいではない。そもそも教育の機会が少ないのである。国の責任だ)。しかし、それでも彼らは身振り手振りで、そして顔の表情や声色で、ときには砂の上に指や石で絵を描きながら説明してくれた。