「軍需」を追い風に成長も
終戦でどん底に転落
その井上氏も2024年には89歳。同年6月、100周年の節目に取締役会長を退くことを表明した。2014年以来10年間、井上氏と二人三脚で同社をリードしてきた十河政則社長は会長に、新社長には竹中直文氏が就任することとなった。ここから、守破離の新たなサイクルが始まろうとしている。
井上氏が率いてきたこれまでの30年間も、守破離のサイクルが回り続けていた。創業期、成長期の「伝統」を踏まえながら、それを脱構築し、次世代成長へと舵を切り続けていったからだ。ここからは、足早に創業期、成長期を振り返ったうえで、井上流経営の真髄に迫ってみたい。
1924年、「大阪金属工業所」が、大阪・難波で産声を上げた。社長は当時39歳の山田晁氏。大阪砲兵工廠、神戸製鋼所、東洋鑢伸銅でものづくりの腕を磨いたうえでの独立、言わば「脱サラ社長」である。
創業当時は社長を含め、全社員15人という零細企業。最初の注文は、飛行機向けのラジエータチューブ(放熱管)。その後も、金属加工技術を武器に戦前・戦中の時代の要請を先取りし、軍需を中心に業容を広げ、10年後には従業員1000人を超える中堅工場に変貌していった。言わば「守」のフェーズである。
1933年には、新冷媒フロンの研究開発に乗り出す。この新たな技術をテコに冷凍機、さらには海軍の潜水艦向け空調設備の製造を手掛けるようになる。この新領域へのピボットが、やがて空調メーカーに進化する礎となったのである。
しかし、軍需とともに発展していった同社は、終戦とともにどん底に突き落とされた。工場閉鎖と人員整理を繰り返し、何度も倒産の危機に直面。そんな中で1950年に朝鮮戦争が勃発し、米軍は非常時に備えて日本での砲弾調達を計画。これを受けて同社は、米軍向けの迫撃砲弾を受注して何とか急場をしのいだ。
その間、いったん住友金属工業(現在の日本製鉄)の傘下に入り、信用力を強化。1963年には従業員数4800人の大企業となり、社名を現在のダイキン工業に変更している。それは、創業期から成長期への「脱」のプロセスの始まりでもあった。
1965年には、山田晁氏は会長に退き、住友金属工業から派遣されていた土屋義夫氏が社長を継ぐ。その7年後の1972年には、満を持して山田晁氏の長男・山田稔氏が3代目社長に就任。直後の第1次オイルショックの荒波にもまれるも、人員解雇回避を宣言。危機を無事に乗り切って、空調メーカーとしての成長の道を着実に歩み出した。