ボケに対する価値観を変える
人生の自然の流れにあるもの

 年をとってくると、脳の活動が縮小されたり制限されたりする。それにともなって、よいものをクローズアップして、必要でないものをカットするという意識の変化が起こる。それが行動面、あるいは精神面にも出てくる。その過程にボケがある。私はそんなふうに思うのです。

 たとえば、かなりボケていても、いわゆる宗教的信仰心は消えない気がします。仏壇に向かって何か乱暴なことをするというのは、あまり聞いたことがない。信心が衰えていく意識の底の「ストッパー」になるのだとしたら、それは一つの希望と言えるのではないでしょうか。

 私はボケを異常としてとらえたくありません。ボケは人生の自然の流れの中にある。そういうふうにとらえたいのです。

 そのためには、ボケに対する価値観が大きく切り替わらなければいけない。ボケを絶対的マイナスととらえて、とにかく人生の中からボケを遠ざけようとするのが普通でしょう。そうではなくて、「♪明るいボケに暗いボケ、同じボケなら明るくなきゃ、ソンソン」と、阿波踊りの文句のような軽妙なとらえ方をしたいのです。

 ボケという現象を正常なものとして、これを認める。認めるどころか、むしろボケは「意識のフォーカス」と呼べるような、人間が老いていく中でのひとつの防御のスタイルかもしれないのです。

 ボケることによって何かプラスはないのか。たとえば、『東大教授、若年性アルツハイマーになる』(若井克子、講談社、2022年)のようなボケていく過程をドキユメンタリー風に記した本を読むと、「ボケる力」というものが確かにあるのではないかと思えます。

 ここではそういうことまであえて考えたい。何か「ボケの効用」も提示できるかもしれません。このようにボケを価値あるものとしてとらえると、ボケの問題として残るのは、そのマイナス面をどうカバーしていくかという「技法」の問題だけになるはずです。

 私が面白半分で行っている「ボケの技法」もいくつか紹介することにしましょう。